橘玲 進化論がもたらす「知のパラダイム転換」 自然科学は人文・社会科学を呑み込むのか
(『中央公論』2022年4月号より抜粋)
――橘さんはこれまで著書やインタビューなどで自身の読書体験について触れています。高校時代、停学中にドストエフスキーの『罪と罰』を読んで衝撃を受けたと。
家にロシア文学全集があって、『罪と罰』から『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』まで揃っていたんです。高校2年生のときに喫煙で1週間の自宅謹慎になって、何もすることがないのでなんとなく『罪と罰』を読み始めたら完全にハマってしまいまして。毎日数時間の睡眠ですべての長編を読み切ったので、ほとんど「洗脳体験」ですね。
大学で文芸研究者ミハイル・バフチンを知って「なるほど」と思ったのですが、彼はポリフォニー(多声性)という視点でドストエフスキーの小説を読み解きます。多くの小説が一人称か神の視点で書かれているのに対して、ドストエフスキーはすべての登場人物に憑依し、それぞれの視点から語り合い、ときに罵り合いながら独特の世界を構築していく。19世紀末のロシア革命前夜という混沌とした時代と相まって、さまざまな登場人物たちが大声で自己主張するような異様な臨場感が生まれてくる。衝撃的でした。
――大学でバフチンを読まれたとのことですが、ロシア文学が進路にも影響を与えたわけですよね?
日本語で読んでもこんなに感動するのだから、ロシア語で読んだらどんなにスゴいだろうと思ってしまったのが、間違いの始まりでしたね(笑)。高校では落ちこぼれの私立文系コースだったので、大学でロシア文学をやろうと思ったら選択肢は一つしかない。それでロシア語科のある早稲田に入ったものの、『地下室の手記』を原文で読んでも新たな感動があるわけではなかった。
授業にも出なくなった頃、クラスの友人からロシア語研究会というサークルに勧誘されました。「君みたいなのは、サークルに入って助けてもらわないと卒業できないよ」と言われて、「そうなのかな」と思ってついて行ったんですね。
当時のロシア語研究会は、ロシア語を勉強するのではなく、思想や哲学を討論する社会科学系のサークルでした。私が入学したのは1978年なのですが、その頃はロマーン・ヤーコブソンやロシア・フォルマリズムから、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ/ガタリといったフランスのポストモダン思想に流行が移っていました。
地方の高校から出てきて、いったいなんのことかまったくわからなかったのですが、「今はポストモダンが一番かっこいいんだよ」と言われ、『現代思想』や『エピステーメー』のような思想系雑誌を読み始めるようになりました。
――ちょうどフランス現代思想ブームの最初期の頃にあたるわけですね。
当時、早稲田では革マル派というセクトが文化系のサークルをすべて仕切っていて、学園祭で巨額の収入を得ていたんです。そういう、いわばマルクス主義の生き残りみたいな30代ぐらいの“おっさん”が「オルグ」と称してサークルにやってくるのですが、彼らを追い払うのにフランス現代思想はすごく役に立ったんです。
「あなたのマルクス理解は古いんじゃないですか。アルチュセールは初期マルクスからの認識論的切断を論じてますよ」なんて言い返すと、相手はびっくりして黙るから面白い。今思い返すとかなり悪趣味ですが。「革命」とかを振りかざす人たちには近づかないようにしようという教訓もそのとき学びました。