オバタカズユキ×えのきどいちろう×武田砂鉄 小田嶋隆とその時代――名コラムニストの仕事と思考を振り返る
(『中央公論』2022年10月号より抜粋)
──6月24日に小田嶋隆さんが65歳で亡くなりました。
えのきど》僕との関係から話すと、キャリアのわりと早いうちの1980年代終わりから、同じ雑誌で書いていました。のちに僕も小田嶋さんもTBSラジオに出演するようになって、そのご縁で、スタジオでご一緒したこともあります。小田嶋さんとコラムの話を一番したのは、同じく同世代のコラムニスト、神足裕司(こうたりゆうじ)を囲んだイベントの壇上です。神足が、くも膜下出血で倒れて話せなくなった後、僕が司会役で「おしゃべりできない人のトークショー」というのを何度かやりまして。小田嶋さんは手弁当で出演してくれて、自分と神足のコラムの違いとか、サービス精神旺盛に話してくれました。
オバタ》私は小田嶋さんの八つ下で、学生の頃から『噂の眞相』などのコラムを読んでいて、講演を聴きに行ったこともあります。その後、ライターになって93年に出した『言論の自由』というデビュー本を、すごく褒めてくれたのが最初の接点です。その後に当時から仲の良かったコラムニストの石原壮一郎と、エッセイストの永尾カルビの4人で飲みました。これは、全員クスリとも笑わずにネタを披露し合う地獄のような飲み会でしたね。2006年からは私が「日経ビジネスオンライン」(以下、NBO)の編集を手伝うことになったので書評を依頼したり、彼の飼っていたイグアナが死んだ時に剥製にするにはどうしたらいいかという相談に乗ったりもしました。久しぶりに会ったのが昨年末の対談(本誌22年1月号)です。あの時は退院直後で時間も限られていたので、もう1回ぐらい会いたかったですね。
武田》僕は学生の頃から小田嶋さんの連載を読んでいました。編集者時代に付き合いはなく、独立して15年に初の著書『紋切型社会』を出した後、すぐに『文學界』で書評を書いてくださったんです。「途中で嘔吐しなかった根性も見事なら、最終的に排泄まで持って行った技巧も並大抵の新人のものではない」と、小田嶋さんらしい言い回しで紹介してくれたのが嬉しくて。それから何度も対談をしたり、ラジオのゲストに来てもらったりしているうちに、脳梗塞で倒れられて。そこへ小田嶋さんのツイートを一冊にまとめる企画が立ち上がり、東日本大震災からコロナ禍まで10年間のツイートを編んだのが『災間(さいかん)の唄』です。小田嶋さんと40年来のお付き合いがある編集者の穂原(ほばら)俊二さんが、僕を選者に推薦してくださったんですが、話が来た時に「これは大変だぞ」と思いました。小田嶋さんのツイートの量と中身から考えて、相当な間引きの作業が必要になるなと。引き受けたら案の定、大変でしたが、結果的にこの一冊を出せたのは良かったです。
オバタ》小田嶋さんは、武田さんに託しているものがありましたよね。
武田》同業者で、なおかつ若造という人がいなかったんだと思います。僕より少し前に出てきた若手論客の多くは、いかにクレバーに振る舞うかを優先しているように見えたらしく、イラッとしていたら、ぴょこっと変なのが現れた。それでかわいがってくださったのかなと。
えのきど》なるほどね。