広島に近代芸術の種まく 戦前戦後の画家支援、中丸雪生の功績紹介
飯室村(現・同市安佐北区)出身の中丸雪生(1893~1968年)。旧制中学時代から絵を描き始め、東京や大阪にも出て洋画や日本画の制作に励んだ。家業を継ぐため若くして画家の道をあきらめ、自身の夢を託すかのように広島出身の画家と交友を深めた。企画展では遺族の所蔵品を中心に紹介し、中丸に贈られた絵画や手紙のほか、中丸が描いた希少な作品も公開する。
交友のあった画家で目を引くのは、中丸より少し年下の飯室出身者に、中央画壇で活躍した画家が幾人も輩出されていことだ。最も著名な画家は、連作「原爆の図」で国際的にも評価された丸木位里(1901~95年)で、中丸宅を何度も訪れていた。後年、少年時代に見た中丸の絵のうまさに刺激されたと述懐している。丸木の遠戚になる油絵画家の中谷ミユキ(1900~77年)は女流画家協会を設立するなど、女性文化人の先駆者的な存在だ。山の絵を得意にした日本画家の佐々木邦彦(1909~72年)は、詩人や文筆家としても活躍した。
山陰に向かう街道沿いの飯室は太田川の水運でも栄えた。泉美術館の永井明生学芸員は「豊かな文化的な土壌があり、さらに中丸の良い影響を受けたのでしょう」と言う。
人脈は飯室にとどまらない。近隣の壬生(現・北広島町)出身の靉光(あいみつ)(1907~46年)、呉出身の船田玉樹(1912~91年)、向原(現・安芸高田市)出身の和高節二(1898~1990年)--。永井学芸員は「中丸こそが、画家たちの活躍を陰で支えた立役者だった。広島に近代的な芸術の種をまいた人」と位置づける。
深い親交を裏付ける資料が、中丸宛てに届いた手紙などの書簡類だ。正月の餅やマツタケなど郷里の産物をいただいたことへの謝意、中丸からの激励や批評に対する返礼、近況報告に垣間見える愛郷心などもつづられる。靉光が44(昭和19)年4月に送った手紙は、行間から戦時下の抑圧がにじみ出る文章で「展覧会出品の魅力がなくなりました」などと葛藤をつづる。戦争の時代を生きた画家の日常が伝わる。
永井学芸員は丸木位里の回顧展を準備中だった2019年、中丸家に残る資料の詳細を知ったという。調査に立ち会った原爆の図丸木美術館(埼玉県)の岡村幸宣学芸員は「種をまく人がいなければ花は咲かない。地方に近代芸術を伝え、芸術家を大きく育てた存在がいたことに注目したい」と語る。
企画展は6月11日まで。一般500円、学生250円、中学生以下無料。泉美術館(082・276・2600)。【宇城昇】