「日本的なものは何でも好き」日本を称賛したスター芸術家、ウォーホルの展覧会
【女子的アートナビ】vol. 261
『アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO』では、ポップ・アートの巨匠として人気を博したアメリカの芸術家、アンディ・ウォーホル(1928-1987)の初期から晩年までの絵画や立体作品など約200点と映像作品15作を展示。そのうち100点以上が日本初公開となっています。
今回展示されているものは、すべてアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品。同美術館は、ウォーホルの故郷であるアメリカ・ピッツバーグにあり、世界で最も多くのウォーホル作品と関連資料を所蔵しています。
本展の開幕に合わせて、同館の館長パトリック・ムーア氏と本展のキュレーターで主任学芸員のホセ・カルロス・ディアズ氏がアメリカから来日。お二人がトークイベントなどで語った解説もご紹介しながら、展覧会の様子をレポートします。
会場に入ると、まずは大きな自画像がお出迎え。メガネをかけた無表情なウォーホルの顔が大きく描かれています。逆立った髪の毛の部分は光っていますが、顔半分が暗くなり、やや陰うつな雰囲気です。
本作品は、ウォーホルが早すぎる死を迎える9か月前に制作されたもの。彼の人生は、これから詳しく紹介していきますが、名声と悪評、光と影に包まれていました。
展覧会のイントロダクションで、まず彼の人生を象徴するような自画像と向き合ってから、本格的に作品世界へと入っていきます。
1章「ピッツバーグからポップ前夜へのニューヨークへ」では、1950年代から60年代にかけて、商業イラストレーターとして活躍した時期の作品を展示。
アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれ育ったウォーホルは、1949年にカーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)の絵画デザイン学科を卒業。その後ニューヨークに移住し、商業デザインの世界でキャリアをスタートさせます。
彼の両親は、東欧の現スロバキア出身。敬虔な東方カトリック教徒の移民家庭で育ったウォーホルは、名前も「アンドリュー・ウォーホラ」でした。
館長のムーア氏は、「貧しい家庭で育ったウォーホルには野心があり、何が何でも成功して貧困から抜け出し、金持ちになって有名になりたいと思っていた」と解説。家族の中で唯一大学に行かせてもらえた彼は、母親からも期待をかけられていたそうです。
展示されている初期作品のうち、赤い靴が描かれたドローイング作品《ハイヒール》には、ウォーホルのサインが英語名で記入されています。ウォーホラからウォーホルへと名前を変えた彼は、その後商業イラストから本格的なアートの世界へと入っていきます。