ケアとは何か。「ケアリング/マザーフッド」展でその在り方を問い直す
展覧会の副題は、「いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?」というやや冗長な問いかけ。これは、「誰もがさまざまな場面でケアと関わっている、というケアの多元性を意識づけるもの」(プレスリリースより)だという。
コロナ禍においてウェルビーイングやメンタルヘルス、セフルケアなどの言葉がよく語られるようになったいま、本展もそのような流れで企画されたのではないかと思ったが、本展の担当学芸員・後藤桜子は「じつは企画を考え始めたのは2017年の頃だった」と話す。
「当時、ケアを受ける対象のニーズに向き合うと同時に、ケアをするための環境や社会制度がいかに欠如しているかという視点も合わせたかった。コロナ禍で起こった『ペイシャンティズム』、つまり誰もが病とともに生きているという考え方は、今回の企画を進めていくうえで後押しとなった。コロナ禍で関心が向いたエッセンシャルワーカーは医療従事者に限らず、家事労働など社会のインフラを支える存在であることに引き続き社会の関心が向いていく必要がある」。
展覧会は、初子を出産後、家事労働とアーティスト活動を同時に行うようになったミエレル・レーダーマン・ユケレスが1969年に発表した《メンテナンスアートのためのマニフェスト、1969!》から始まる。生活や環境の維持を行うためのメンテナンス=労働自体を作品としてとらえる宣言だという。
「こういった家事労働、もしくは社会におけるメンテナンスを担うような仕事は無償、または非常に価値の低いものとして当然視されてきた。そういったものを美術館という公的な領域でアーティストの作品として発表され、その価値を問い直す試みだ」(後藤)。
第1の展示室では、同じく家事労働をテーマにしたマーサ・ロスラーの《キッチンの記号論》(1975)や、家庭や工場で働く無償または低賃金の労働者に目を向けたホン・ヨンインによるパフォーマンスの記録映像《アンスプリッティング》(2019)、抑圧のなかで生きている現代の女性の不安や苦しみを抱えながら、それでも希望の蓮を掲げるユン・ソクナムの《Lotus》(2002)、石内都が亡き母の遺品を撮影した「mother’s」シリーズなどが並ぶ。
同展示室に出品された二藤建人の《誰かの重さを踏みしめる》(2016-21)は、鑑賞者が実際に体験できる作品。ふたりの参加者のうちひとりが上に向けて作品の真ん中にある穴から足を突き出し、もうひとりが上から下の人の足に立つというものだ。二藤は、「人間の重さというものは、一人ひとり固有のものであり、決して誰かに渡すことができないし、相手の重さもわからない。そういったものを限定的に受け取ることをできるようにするこの装置を通じて、足の裏の感覚に集中して相手の姿を想像することができる」と説明している。
第2~第4の展示室では、本間メイ、青木陵子、出光真子の作品が紹介。妊娠や出産など女性特有の痛み、または社会によって植え付けられる痛みを西洋・東洋の歴史や風俗に参照しながら考察する本間の映像作品《Bodies
in Overlooked
Pain(見過ごされた痛みにある体)》(2020)、子供の成長に伴って学校で行われる親と先生との二者面談が子供を含めた三者面談に変わったことをきっかけに、日常における取り留めのない思考から展開された青木のインスタレーション《三者面談で忘れてるNOTEBOOK》(2018)、亡母を回想し、その存在を考え直す出光の映像作品《ざわめきの下で》(1985)や子供たちが自立した後の母親の心境を語る同氏の《たわむれときまぐれと》(1984)では、本展タイトルの後半にある「マザーフッド」が示すように、「母親である期間や状態」の視点からケアの本質を問いかける。
松本篤、宮本博史、八木寛之によるAHA![Archives for Human
Activities/人類の営みのためのアーカイブ](以下、AHA!)は、第5室の広々とした空間を使ってアーカイヴ作品《わたしは思い出す》(2021)を展示する。同作は、2010年6月11日、東日本大震災の9ヶ月前に第一子を出産した仙台沿岸部在住のかおりさん(仮名)という女性が11年間にわたって書き続けた育児日記を再読し、その一部を再記録化したもの。本展では、かおりさんにとって小さな月誕生日である毎月11日のエピソードにフォーカスし、震災のエピソードと個人的で断片的な回想が重なり合う構成だ。
続いて、1970年代に名古屋で行われた保育士の労働運動に関わった人々と共同制作した碓井ゆいの《要求と抵抗》(2019)、認知症を患って長く施設に入所していた自分自身の母親が徘徊していたルートをたどるパフォーマンスを記録したヨアンナ・ライコフスカの《バシャ》(2009)、2000年から5年ごとに、母親が自身にツバを吐きかけるパフォーマンスを繰り返し記録し、母と子の関係を問い直すラグナル・キャルタンソンの「私と私の母」シリーズを経て、展覧会の最後にはマリア・ファーラとリーゼル・ブリッシュの作品が出現する。
フィリピン人の母とイギリス人の父のあいだに生まれ、15歳まで山口県下関市で過ごしたのち、ロンドンに移住したファーラは、これまで移民労働者の女性を鮮やかな色彩で描き続けてきた。本展の出品作品にも、子供の頃に憧れたハイヒールや祖母のレシピでつくられたレチェ・フラン、ロンドンで初めて食べたクロワッサンなど、彼女の幼い頃の思い出にまつわるモチーフが多数描かれている。これらのモチーフは、移民労働者の女性の後ろ姿が描かれた画面に点在しており、鑑賞者に想像を掻き立てながらアーティストの優しい眼差しを感じさせる。
最後の展示室を飾るのは、リーゼル・ブリッシュの映像作品《ゴリラ・ミルク》(2020)と自著の書籍『クィアな授乳』(2022)だ。前者は、ブダペストの動物園に生息している、アーティストと同じ名前を有するメスのゴリラ・リーゼルをドキュメントしたもので、アーティストより20歳年上というこのゴリラに照らし、生殖機能や性的魅力を失った場合の女性たちの社会における扱われ方や家父長制を問い直す。いっぽうの書籍『クィアな授乳』では、授乳する行為をどのようにとらえるかということを問いかける。リーゼルは、「映像作品が2020年代の女性としての現実を描いたものに対し、書籍はこれから起こす革命や未来を想像したものだ」と語る。
また、ブリッシュの作品と呼応するように、同展示室では上述の碓井が本展のために制作した仮設の授乳室も設置。AHA!と碓井の展示をつなぐ通路に隣接するワークショップスペースにも同じ授乳室が置かれており、来場者が実際に利用することができる。
なお会期中には、前出のAHA!の展示作品を再構成した書籍『わたしは思い出す』の読書会や「子育てアーティストの声をきく」掲示板、高校生向けのワークショップなど、多種多様な関連プログラムも開催される予定だ。これらの企画について後藤は、「何かを発信していったり、社会を変えていくつながりをつくる場所としての美術館の在り方を問いかけるきっかけになれば」と述べている。
また、本展の意図について後藤はこう続ける。「ケアの在り方や、どのようなケアに価値があるのかをこちらから提示するのではない。鑑賞者の方々に、いままでケアを担ってきた人たち、もしくはケアの行為と創作活動を並行して行ってきたアーティストたちの表現を見ながら、その位置付けを社会のなか、もしくは個人の身の回りでどのようにとらえることができるのかを考え直してほしい」。
ケアとは何か。社会とケア、そしてケアとその担い手はどのような関係にあるのか。人によってその経験や理解も異なるだろう。本展の出品作品を手がかりに、自分にとっての「ケア」の意味を考えてみてはいかがだろうか。