着物姿で「アメリカ国歌」を歌った、伝説の歌手「三浦環」…米国中にセンセーションを巻き起こした「その公演秘話」
無邪気で世間知らずの環を一流のプリマ・ドンナへと育てるために、ラビノフは数々の策を練っていた。常に着物を着ていること、夫と一緒に歩かないこと、アメリカでのデビューはニューヨークではなくシカゴで行い評判を広めること。そして、他の演目を組み合わせるというプログラムの工夫である。
環が出演する《歌劇 マダム・バタフライ》の終演後、バレリーナのアンナ・パヴロヴァが<瀕死の白鳥>を踊った。
<瀕死の白鳥>は、カミーユ・サン・サーンス作曲<動物の謝肉祭>の組曲の一曲に、舞踊家のミハイル・フォーキンが振付けした作品である。上演時間は五分にも満たない小品であるが、パヴロヴァは明治三十八年(1905)の初演以来、世界各地で踊り、観る者の魂を揺さぶる名演は、話題となっていた。
パヴロヴァは環の歌を聞きながらみずからの公演前のウォーミングアップをしていた。環が歌い終えて舞台袖そでへ行くと、パヴロヴァが毎回同じ場所で真剣に稽古している姿を目にした。
既に名声を得て、世界随一のバレリーナと言われる人が繰り返し休むことなく、足を上げ下げし、練習する姿に環は感じ入った。
ロンドンからアメリカへ渡った環は母・登波へ近況を知らせ、登波は親戚へ手紙を送った。
----------
(略)ロンドンニ居ル三浦両人事、此頃ハ米国へ参り申候、環事ロンドンにて
大へんせいせき宜敷故、フランスやオランダや米国やにて申こみ有て、其内米国をゑらんで 十月四日より十五六分間二万円にて行たとて、本日手紙が参りました、米国にても大へんもてゝ居るとの事、私にも米国迄一寸きてくれと申ますが、とふも 行かれそふもありません、本年中ハ米国に居るとの事 又ロンドンへ参ると申ました、とふぞとふぞ父上様ニよろしく御伝へねかいあけ候、(略)
十月廿五日
東京 とわ
政蔵様
御前に
「書簡集I・II」静岡県袋井市(資料提供・元木房子、協力・豊田浩子)(以下、「書簡集」)
----------
ロンドンで実力を認められた環は、アメリカでは、「十五六分間二万円にて行た」と登波へ良い条件で舞台へ出演していると報告している。更に、「米国迄一寸きてくれ」と誘い、登波は気安く海外へ誘う環に驚き尻しり込みしたのだろう、「とふも行かれそふもありません」と書いている。
この手紙にあるように、環は良い条件で各地の舞台へ出演し、大変な忙しさであった。
----------
私自身が戸惑いしちまうほど人気があって(略)席の暖まるひまがない。(遺稿)
----------
とは言え、環の体は一つだから、人気に応こたえるには文明の力を借りなければならない。
大正六年(1917)、アメリカ・コロムビア社で《歌劇 マダム・バタフライ》より<ある晴れた日に>他をレコード録音した。
政太郎は大正七年(1918)一月からコネチカット州ニューヘブン市にあった、イェール大学理科へ入った。大学で研究に明け暮れる日々が始まるが、一方の環は、英語も契約交渉も不安だったので、政太郎に身近にいてもらい何かと相談したい。
政太郎も環を放っておくわけにいかなかった。研究を中断し、環のオペラ公演の巡業に同行した。
在留邦人の間では、プリマ・ドンナの夫である政太郎が大学を休み、妻の行く先々へトランクを持って、ついて歩く姿は話題になった。マダム・ミウラは医師である夫を鞄かばん持ちに使っている、政太郎は尻に敷かれていると。
しかし政太郎は全く気にするそぶりはなかった。
----------
やきもちの気持ちも手伝ったのでしょう。ともかくひとのことをうるさく云うのです。(略)それは夫婦の間の愛情の問題で、どうだっていいじゃありませんか。(遺稿)
----------
環は周囲のお節介に辟易としたものの、オペラ・カンパニーの巡業にも慣れてきたので、政太郎はイェール大学へ戻り、研究に専念することになった。