藤原宮造営で瓦を大量製造か 奈良・日高山瓦窯で新たに窯跡3基
藤原宮はまず、約1キロ四方の大垣から造られとみられ、その後に中核施設の大極殿などが建てられたという。日高山瓦窯は宮の南側約300メートルの丘陵にあり、大垣にふく瓦などが作られた。
1960~70年代に3基の窯跡は確認されていたが、その後のレーダー調査で別の窯も存在するとみられていた。今回は5月からの発掘調査で、すでに見つかっている3基の間や東側などから新たに3基の窯跡が見つかった。いずれも地面に穴を掘って造る半地下式で全長1・5~3メートル。一つは瓦を並べる焼成部が平らな「平窯」で、残る二つは傾斜する「窖窯(あながま)」だった。
計6基の窯を全て稼働させた場合、1日で3000枚以上の瓦が製造できたと考えられるという。木立雅朗(きだちまさあき)・立命館大教授(考古学)は「平窯は当時としては新しい構造の窯で、窖窯と混在している珍しい例。両者で製造効率や質に一長一短があり、朝廷が多くの瓦を短期間で作るために試行錯誤していた様子が分かる」と話している。
現場説明会は7月1日午前11時。少雨決行。
◇宮殿屋根に200万枚、各地から水運
藤原宮の宮殿は国内で初めて瓦ぶきが採用された。中核的な建物の屋根をふくだけでも推定200万枚以上の瓦が必要とされた。そのため、瓦は遠く四国からも運ばれた。
県内では日高山瓦窯をはじめ、7カ所以上で藤原宮に使う瓦が生産されていたことが確認されている。大和郡山市の「西田中瓦窯」と「内山瓦窯」も藤原宮専用の瓦窯だ。
最も遠くからは、香川県三豊市の「宗吉(むねよし)瓦窯」(国史跡)で焼かれた瓦が宮跡から出土している。宗吉瓦窯は藤原宮専用ではないが、21基の窯で瓦を量産していた。
瓦は運河や河川、海など水運で運ばれた。瓦窯が各地に分散していたのは、瓦を焼く燃料のまきや人手の確保が、藤原京付近だけではまかないきれなかったからだと考えられている。
瓦が国内で使われ始めたのは6世紀末とされ、一部の寺院の屋根などにふかれるだけだった。各地から瓦を集めたことについて、奈良文化財研究所都城発掘調査部は「宮殿を造った朝廷の計画性と強い意思がうかがわれる」としている。【皆木成実】