今やっと美術に誇りらしいもの 「もの派」李禹煥さん創作の原点
ものともの、ものと人の関係を絵画・彫刻作品や評論活動を通して問いかけてきた。香川・直島や韓国、フランスに個人美術館・ギャラリーが開館。海外の主要美術館でも個展を重ねた作家が、東京で初の大規模個展に臨む。国立新美術館で開催される「李禹煥」展(兵庫県立美術館にも巡回)では、過去の代表作から新作までを紹介。「僕自身が、仕事をどのように展開してきたか整理してみたかった」と、展示構成も手がける。
取材をしたこの日、神奈川県鎌倉市のアトリエには展示室の立体模型があった。「絵画でさえも近作は、壁に掛けることで周りの空間と響き合ってほしいという仕事なものですから、どうしても空間性が大事になってくる。全体の構成そのものが僕の世界ということになると思います」
◇字や絵をかく前に学んだのは
36年、韓国・慶尚南道で生まれた。「山間へき地の、古い家で育ちました」。記憶にあるのは、年に2、3度、自宅に滞在していった文人の黄先生。合間を見ては、詩(漢文)や書画の手ほどきをしてくれた。
「字や絵をかく前にまず、点の打ち方、線の引き方をやらせるわけです。筆に墨を付けて、墨がなくなるまで点をつけてごらん、線をまっすぐ引いてごらんと。20~30分かけてやるんです。そういうことを、何も知らないうちに教わったんです」
来日は56年。ソウル大学校美術大に入学して間もなく、父から日本に住む叔父に漢方薬を届けるよう言われた。叔父に引き留められ、幼いころからあこがれていた文学をやるつもりで日本大に進学。哲学を学んだ。
転機は、アルバイト先のビルにできた「ギャラリー新宿」。そこに批評家の東野芳明や中原佑介、作家の赤瀬川原平や高松次郎らが出入りし、現代美術に接するように。そして、美術家、李禹煥の誕生と言うべき68年を迎える。東京国立近代美術館であった韓国現代絵画展に、蛍光塗料を塗った300号の画面を3点並べた。視覚を混乱させ、見ることを拒否するような作品は大きな反響を得た。70年代に入ると、幼い頃に身体で覚えた点や線は、初期の代表作「点より」「線より」に結実した。
◇現場性がよみがえるように
空間における対象について思考を巡らせてきた李さんは、外部との接触が制限される新型コロナウイルス禍をどう思うのだろう。オンラインで展示を見せることは意味があると認めつつも、「やはり人間の感覚や身体的な問題からすれば、それで済ますわけにはいかない」と強調する。家にこもることについても、「考える時間を与えてくれたことはプラスになったが、長引き過ぎると決して望ましいものではない。身体的な出会いや別離があってこそ自然な成り行きが生まれる」と指摘する。
「リスクはあるにしても、知恵を絞り、動き回り、一緒にパフォーマンスをするような社会に戻ってほしいと僕は思います。展覧会でも、多少のリスクは覚悟して、集うことを優先してほしい。現場性みたいなものが早くよみがえるようにしてほしいと思います」
◇「文学をやりたいのが本音」
現代美術の道を歩み始めて半世紀が過ぎた。だが、「ずっと美術家じゃないという気持ちを抱えていた」と明かす。「文学をやりたいのが本音」だったからだ。多数の著作があるが「日本で習った日本語ではとても無理だと、書けば書くほど切実に思うようになっていました」。
「しかし」と、穏やかな笑みを浮かべて言葉を継ぐ。「2000年前後になってやっと美術も意外と面白い、と。目の感覚的な反応でしかないと思っていた美術の多様さが分かるようになり、今は『誇り』らしいものを持つようになったのかな、というところです」
◇記者の一言
アトリエは、前に川が流れ、初夏には蛍が舞うという場所。静寂に包まれた李さんの作品のような空間だった。鎌倉を選んだのは、大学時代の恩師宅に度々訪れていたことが縁だったという。近年の国際的活躍は言うまでもなく、韓国の男性グループ、BTS(防弾少年団)のメンバーRMさんも李さんのファンで、釜山市立美術館にできた李禹煥スペース(ギャラリー)を訪れたとファンの間で話題になっている。そう水を向けると、「確かに僕の作品が好きな人が(BTSのメンバーに)いるらしく、ある画廊の人を通じてサインをプレゼントしたこともあります。彼らに会ったことはないが、ヨーロッパでもアメリカでも彼らの公演に行って熱狂的になっている人がいました」と活躍を耳にしていた。「僕は彼らとは全然関係はないけれども、現代美術はまだ生きていて、これからも進む。そういう意味で(現代美術を)広めてくれることは、ありがたいと思っています」と語っていた。新美術館での個展には、これまで以上に多くの人が訪れそうだ。