100年後にも伝わる鎮魂歌を 広島出身の作曲家・細川俊夫さん
◇あの津波の戦慄 忘れない
3・11の当日、私はベルリンにいました。能を題材としたオペラ「松風」の稽古(けいこ)が現地で始まったばかりだったのです。全てを荒々しくのみこんでいく津波の映像を、言葉もなく見つめるだけ。あの戦慄(せんりつ)を忘れることはないでしょう。
「松風」は世界的振付家サシャ・バルツさんの演出により、波の音で幕が開きます。しかし震災翌日に「津波の衝撃が生々しい今、この演出は変えるべきでは」との意見が出ました。結局は当初案のまま5月にブリュッセルのモネ劇場で初日を迎えたのですが、遠い島国の災害を我が事として捉え、議論を尽くす欧州の人々の態度に驚かされました。私が震災を主題に作曲を続けているのも、その姿を目の当たりにした影響が大きいと思います。
まず書いたのはレクイエム(鎮魂歌)で、管弦楽曲「冥想(めいそう)(メディテーション)――3月11日の津波の犠牲者に捧(ささ)げる」(2012年3月、韓国統営(トンヨン)国際音楽祭で初演)でした。この曲はすでに世界中で40回近く再演されています。
つらくとも実態を見なければと、震災翌年の4月には福島を訪れました。小学校の校舎の大時計は津波が押し寄せた3時38分で止まり、見る人もない桜が満開。砂浜には打ち上げられた靴が転がっている。そして不気味なほど静かな海から、コーラスのような声が聞こえてきたのです。身も凍る響きでしたが、亡くなった方々が残した思いに耳を傾けねばならない。聞き取って記譜することが使命なのだと。それから福島へ通っては場に流れる「気」をすくい、音にしてきました。
西洋音楽のレクイエム、わが国の「万葉集」以来の挽歌(ばんか)(追悼歌)。いずれも死者の魂を鎮めるとともに、生き残った人を慰める役割があります。名状しがたい激烈な感情に音楽という形を与えることで悲しみが整い、他者と分かち合えるようにもなる。さらに音楽は、時空を超えて繰り返し再現される芸術です。楽譜にすることで50年後、100年後の人にも震災の痛みが伝わればと願っています。
ビオラ独奏曲「哀歌――東日本大震災の犠牲者に捧げる」(12年5月、東京国際ヴィオラコンクール課題曲)などもありますが、震災関連で最も目立つのはオペラ作品でしょうか。最初は平田オリザさん原作・演出の「海、静かな海」(16年1月、独ハンブルク歌劇場で初演)。幼子を亡くした母親が海辺をさまよう姿に、子を奪われた母が狂乱する能の「隅田川」を重ねて書いたものです。
18年7月に独シュツットガルト歌劇場で初演された「地震・夢」は、作家クライストの短編「チリの地震」のオペラ化。物語に現実の震災を結びつける試みでした。音楽と言葉の力に視覚効果も加わるオペラの形態は、社会と直接つながる強度をもちます。劇場という装置の中で彼岸と此岸(しがん)、夢と現実が結ばれ、魂が浄化される。作曲は意識のトンネルを作るような営みだと、つくづく思います。
◇自然の混沌にどう向き合うべきなのか
震災は創作上の転機でもありました。高度成長の陰で永遠に失われた美しい景色への郷愁から、私がめざしたのは一貫して「自然との共鳴」。風のそよぎや虫の声に「もののあわれ」を見いだしてきた日本人の感性を音符にしたかったのです。命が生まれ、やがて帰る母胎としての海も重要なモチーフでしたが、その認識は甘かった。自然は時に牙をむき、人間をのみこんでしまう……。容赦のない真実を3・11は突き付けてきました。それでは自然の混沌(こんとん)に、音楽家はどう向き合うべきなのか。今も考え続けています。
私は第二次大戦終結から10年後の広島に生を受けました。すでに復興が進んで原爆の爪痕を実感することはなく、親たちも悲惨な体験を進んで語ろうとはしなかった。一昔前の事件を風化させずに残すには、やはり芸術という器が必要なのでしょう。物理的な破壊と、それに続く放射能の恐怖。ヒロシマとフクシマで起きたことは、自然への畏怖(いふ)を忘れた人類に対する警鐘なのかもしれません。【聞き手・構成、斉藤希史子】
◇ほそかわ・としお
1955年10月23日、広島市生まれ。20歳で渡欧し尹伊桑(ユンイサン)らに師事。現代を代表する作曲家として、主要劇場や管弦楽団などからの委嘱が引きも切らない。後進の育成にも注力し、武生国際音楽祭(福井県)などの音楽監督を歴任。現在、東京音大とエリザベト音大の客員教授。2012年紫綬褒章、21年にはドイツ政府よりゲーテ・メダルを授与された。