手渡される語りと忘却。高橋ひかり評「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展
東京都現代美術館のキュレーションのもとで、毎年気鋭のアーティストを紹介するMOTアニュアル。今年は「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」と題し、大久保あり、工藤春香、高川和也、良知暁の4名によって構成された。「言葉や物語を起点に、時代や社会から忘れられた存在にどのように輪郭を与えることができるのか」「語ることや記述の困難さに向き合い、別の語りを模索するアーティストたち」──。本展覧会のキュレーションにはこのように、しばしば物語や語りという言葉が用いられている。
その言葉自体が示す通り、物語は他者に語られることによってはじめて認識される。
誰かにある出来事を語るとき、出来事を経験した人物自身も、それを網羅的に語ることはできない。語りうるとすれば、その人物が記憶にとどめた出来事の一部始終である。それが本当に起こったかどうかは問われない。むしろ、幾度も語られるうちに一部が抜け落ち、曖昧になった時系列や事実関係をつなぎ直す新たな語りが加えられるその過程において、物語は固有性を獲得していく。
つまり物語は、絶えず人びとの忘却によって削り取られ、虚実の入り混じる語りによって肉付けをされていくと言える。他者が存在する限り同一の物語を共有することは不可能であり、それゆえに物語は語り継がれ、永遠に生きながらえていくのだ。
この意味において、本展のタイトルは物語のずれや分有性、あるいは平行性を暗示する。
「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」。エスカレーターを登りきって、展示室の入口に立つ。正面の壁に掲げられたこのテキストを読んだ瞬間から、そこに記された「私」はアーティストのみならず鑑賞者自身の名として手渡され、あなたは静かに、4名の物語を新たに編纂する主体として歩みを進めることになる。
プロローグ
歴史や法律、社会制度などのリサーチをもとに、そのなかで見えづらくされてきた個人の声を可視化する作品を発表してきた工藤。本作《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》では、優生政策と障害当事者運動に主軸を置きつつ、フェミニズム運動やダム建設反対運動など、「マジョリティに対するマイノリティ」といった構図で捉えられやすい人びとの声を、そしてそのゆらぎをも炙り出している。
会場を歩くと、工藤の展示には一貫して「線」が通底していることに気づく。それは、あるときは絵具や鉛の「ストローク」であり、あるときは相模湖の計画地として湖底に沈んだ集落の沈黙と、1964年、東京オリンピックのカヌー競技が行われた湖上の熱狂を分かつ「水面」であり、またあるときは旧優生保護法の歴史とその政策に立ち向かった障害当事者の運動史が記された、会場を二分する「布」である。物理的なものから比喩的なものまで、あらゆる線はまず、これらの語りの大きな構図を描き出してみせる。
いっぽうでそれらは、共存し得ないと思われていた景色や、二項対立の狭間にある不可分の語りを可視化させる触媒としても機能する。先述のストロークが、相模湖を描いた絵肌の上にかつての集落の輪郭を描き出し、現在の景色に過去の営みを透かせて見せるように。相模原障害者施設殺傷事件の被害者である一矢さんのTシャツが、優生政策をめぐる二つの歴史の上を軽やかに飛び越えるように。
線は点と点を結び、分かち、あるいは分かたれたと思われていたものの両義性を炙り出す。ある出来事がもうひとつの物語の起点となり、語り続けられる無数の物語を可視化するために。「あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。」という語りは、他者への拒絶ではなく、他者と共存するために紡がれるプロローグの言葉としてもたらされているのである。
忘却と円環の力学
ここは美術館の一角 作品の内部
あなたはモチーフのひとつ 宇宙に存在する要素
全てのものがたりはあなたを含んでいる
さて
《No Title Yet》より
大久保の展示室に入ると、右手にはこのような一節が掲げられている。「さて」の続きは書かれていない。所在なく手もとの作品リストを確認してみると、《No
Title
Yet》というタイトルとともに、三重の輪の構造をもった空間が図示されている。入り口と出口はあるが、それらを隔てる仕切りはない。始まりも終わりもないこの回廊は、物語の半永久的な命を体現するかのようである。
テキストやオブジェクトからなる大久保の作品群は、旧作(ではないものも含まれているという)とそれに対する注釈や解説等の付記を一単位として空間のあちこちに仕掛けられている。鑑賞者は「さて」の続きを、あるいは物語の核心をつくような何かを求めて歩き回るよう促される。「過去の作品を思い出しながら」選択されたというこれらの作品は、本展に持ち出されるまでの過程で一度忘却され、思い出され、新たな語りが付与されている。ゆえに、そこに物語の作者としての大久保を見出すことは困難なように思われる。彼が提示するのは、あくまでどこか俯瞰した、編纂者としての語りである。
ある出来事の一部が忘却され、その余白に解説や解釈の輪郭が「外付け」されるというこの構造は、中心に《White Cube is
Emptiness》と題された「不在」の作品が配置され、その周縁に作品が散らばる展示室の構造とも呼応する。
忘却によって不在が生まれる。不在は新たな解釈や文脈を喚起する余白として未完のまま開かれる。鑑賞者はゆえに、それらの新たな編纂者として導かれ、展示室を回り続ける。そこには物語を生かすための円環の力学が、入れ子状に発生しているのだ。
他者の物語を回復するために
無数の線に導かれ、円環の渦を漂ったあとに待ち受けるのは、静謐で広大な良知の展示室である。置かれているのは、小冊子、スライドプロジェクター、葉書、時計、ネオン管の5つ。
展示タイトルの「シボレート/schibboleth」とは、対象者の帰属する文化や共同体を見分けるために使われる指標をさす。シボレートの字義をうけ、5つのオブジェクトは鑑賞者に「何がみえているか」「どんな意味を見出すのか」と問いかける。
シボレートはしばしば歴史において、他者を排斥し、権力者の属する共同体の優位性を主張する手段として利用されてきた。それは、良知がこれらのオブジェクトのなかで引用する「Write
right from the left to the right as you see it spelled
here.」「15円50銭」といった言葉を仕向けられた人びとが、その解釈や発音を根拠に排斥・虐殺された歴史のなかに見出される。
いっぽう、茫洋としたこの展示室においては、スライドは人の有無を問わず自動的に投影され、発音記号をかたどったネオン管は光を失い、時刻を示すはずの時計は停止している。この空間においては、「正しさ」の解釈を司る者はいない。ゆえに、オブジェクトの意味解釈は鑑賞者の手に委ねられる。
その詩を口にする。正しく発音できているかできていないかにかかわらず、選別の記号としてではなく、それが記憶するものを忘れないために。
《シボレート/schibboleth》より
権力者が恣意的に狭めた語りの解釈を解放し、その複数性とコンテクストの回復を試みること。シボレートはこの場において、選別の手段としてではなく、物語を分有するため「合言葉」として立ち現れるのである。
憑依する物語
最後の展示室につながる長い廊下を歩く。かすかに聞こえてくるのは、同じリズムの言葉を反復する「語り」ある。
自らの日記をラップに仕立てていく様子を映像でとらえた高川は、ごく私的な言葉がひとつの物語として立ち上がるまでの過程を映し取っている。
自らの鬱々とした思いを日記に書き留めた過去の経験から、「苦悩が言葉を必要とする」という現象に興味を持ったと語る高川(*1)。個人の苦悩や思いがラップを始めとした「形式をともなった言葉」に変換されるとき、それはどのような性質を帯び、どのように人を感応させていくのか。高川は、本作を通じてこのような「語り」の変容を描こうとする。
日記に記された言葉は、そこに留まるかぎり高川の迷いや欲望を表現するための手段であり、他者を必要としない。また、韓国にルーツを持つ両親のもとで育ち、教会に通った経験を持つ共作者のラッパー・FUNIも、ラップ以前の原体験として懺悔室での告白があると語る。ここに個人的な救済のための語り、つまり「私」が自らのために記す/語る言葉によって「私」を感応させる最初の物語形式が見出される。
このような閉じられた形式に対して、ラップは他者に向かって開かれた形式として描かれる。
日記に書かれた言葉は、FUNIの「出だしの言葉を強調して」「次はすべての言葉をはっきり発音して」といった指導のもとにそれまでの意味を手放し、新たなルールを獲得する。すなわち、ラップ特有の語りの抑揚やリズム、音楽、身振りなどが与えられることで、他者の新たな解釈を求める物語へと変貌していくのである。終盤、それまで制作者としてどこか俯瞰した様子だった高川が、自らのラップの語りに飲み込まれるように高揚していく様は興味深い(いっぽうで、女性を性的対象として軽視する言葉が日記から取り出され、ラップとして唱えられていたことに筆者は強い違和感を感じた)。主客の逆転、すなわち「私」が生み出した物語が「私」を語らせるという現象をとらえた本作は、物語の強力な求心力や憑依的な一面を描写している。
プロローグのためのエピローグ
高川の長編を見終えてエスカレーターを降り、会場の出口をくぐる。ここは、入り口でもあった場所だ。
4つの物語は、ある人の記憶には留められ、またある人の記憶からは忘却されていくだろう。しかし、鑑賞者が日常に戻り、それぞれの生活に身を浸すなかで──例えば、今日まで気に留めなかったニュースや誰かの会話のなかで──その断片はふと浮かび上がるかもしれない。聞いているようで聞いていなかった誰かの語りに、耳をすませることができるようになるかもしれない。それらを「私」の物語として、時には誰かの悲しみや憎しみを分有し、語ることができるかもしれない。
そうだとすれば、この忘却は終わりではなく、潜在的な物語を喚起する始まりとなる。4つの物語は未完であり、無数の「私」たちへと手渡されているのである。
*1──「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展
参加アーティストインタビューより。 https://youtu.be/IvPZlm60NmI