民芸運動1世紀、柳宗悦が見いだした「丹波焼」 実用品に求めた美、 暮らしに根差す作品生む
民芸とは「庶民の生活の中から生まれた、郷土的な工芸」(広辞苑)。柳は名もなき職人たちが生み出した実用品の中に美を見いだし、大正時代末ごろから、陶芸家河井寛次郎らと運動をリードした。
「祖父は柳さんのことを私の師匠と話していた」と語るのは、古丹波の名品を集めた「丹波古陶(ことう)館」(兵庫県丹波篠山市河原町)3代目館長、中西薫さん(63)だ。祖父とは初代館長の故中西幸一さん。
柳が丹波焼への関心を深めるきっかけとなったのが、幸一さんとの出会いだった。1927(昭和2)年ごろ、柳は丹波布を求めて同県の丹波地域を訪問。現在の丹波篠山市で幸一さんが営んだ道具商「中西尚古堂」で丹波焼を目にした。38年に幸一さんが大阪の阪急百貨店で開いた展覧会に、柳は3度も来訪。53年には、英国の陶芸家で、民芸運動にも携わったバーナード・リーチらと窯元を視察し、晩年まで数多くの古丹波を収集した。
柳は、中西尚古堂を通じてコレクションの多くを入手した。幸一さんが各地で探しだし、柳の目にかなった作品が所蔵品に加わった。「(収集は)2人の共同作業だったといえるかもしれない」と薫さんは持論を語る。
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「丹波焼に対するイメージ形成に、柳は大きな役割を果たした」。中之島香雪(こうせつ)美術館(大阪市)の学芸課長、梶山博史さんは指摘する。それまで丹波焼で珍重されたのは主に茶道具の一つ、茶入(ちゃいれ)だった。近世の大名茶人小堀遠州(こぼりえんしゅう)らが好んだためという。
柳が愛したのは、庶民が生活で用いた水甕(がめ)や壺(つぼ)、徳利(とっくり)…。実用品の数々だった。「丹波の古陶は、私の見るところでは、最も日本らしき品、渋さの極みを語る品、貧しさの富を示す品と思われてならぬ」と自らつづっている。自然釉(ゆう)の壺や赤褐色の赤土部の甕など、現代人が抱く丹波焼のイメージは、まさに柳が発見、発信したものともいえる。
丹波焼は民芸運動にかかわった作家たちにも影響を与えた。同館では特別展「陶技始末-河井寛次郎の陶芸」を開催中だが、梶山さんは河井が伝統的な丹波焼の技法に学んだ実例を紹介している。
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「仕事が暮らし、暮らしが仕事」。丹波篠山市の里山で生活しながら、作陶を続ける柴田雅章さん(73)のモットーだ。暮らしに根差した「民芸」の精神を受け継ぎ、「器とは人間と一緒に暮らすもの」と語る。師匠は河井寛次郎のまな弟子で、丹波焼作家として活躍した生田和孝(かずたか)。河井の孫弟子にあたる。
大学時代、柳や河井の著作に感銘を受け、陶芸の道を志した。柳らが日本に広めた「スリップウェア」と呼ばれる英国伝統の焼き物を独自に研究。化粧土(スリップ)で、模様を描いたおおらかな皿など、美しく、かつ実用的な器を手がける。
大切にしているのが、「土を感じ、季節に触れること」。土作りから始め、まきを使った登り窯で焼き上げる。河井も、師の生田も自らの器に銘を入れなかった。無名の職人たちが生み出す美への共感、敬意ゆえである。「私も自作に銘は入れません」と柴田さん。器に手仕事の美が宿る。