哀愁に満ちた世界に射す「静かな光」…「サーカス芸人」の昭和と令和をたどる旅
かつて「キグレサーカス」で幼少期を過ごした著者は、約四十年の時を経て、当時の芸人たちを訪ね歩き、話題のノンフィクション『サーカスの子』を描いた。徹底した取材力でベストセラーを生み出してきた作家・塩田武士さんは、本作をどう読んだのか。(「群像」2023年6月号より転載)
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北海道のある展望台へ取材に行ったとき、一望できるはずの街並みが春霞によって覆い隠されていたことがあった。同行者はしきりに残念がっていたが、私は陽の光を受けた霞が静かに光っている様に魅せられた。なぜだろう。本書を読んでいる私の頭の中には、常にあの「静かな光」があった。
著者の稲泉連さんは幼少期の約一年間、母と二人でサーカス団の一員として生活していた。炊事場で懸命に働く母と浮世離れした世界に親しむ子供。それから約四十年が過ぎてもなお、ノンフィクション作家の心に留まり続けるあの季節とは一体何だったのか。稲泉さんは「帰りたい場所」を求めて記憶の旅に出た。
かつて日本三大サーカスの一つと言われた「キグレサーカス」の大舞台で活躍していた演者を一人ひとり訪ね歩き、過去と現在を照らし合わせる。そこに浮かび上がったのは“家族”の残像だった。
移動生活を送る彼らは西暦や年号ではなく公演場所で時期を特定するという。流動体の定めか、掛け流しの湯のように人の出入りがあり、来る者は拒まず、去る者は追わない。ただ、一員である間は同じ釜の飯を食い、団員の子供はみんなで育てる。時には死者が出る命懸けの芸だからこそ、日常で家族的なつながりを求めたのだろう。だが、心地いいぬるま湯は、湯冷めの前ぶれでもある。サーカスを去った人々を待ち受けていたのは、世間に吹く寒風だった。
団員がサーカスを去る原因は子供だ。二ヵ月ごとに次の開催地に向けて発つ「場越し」のため、子供は頻繁に転校を繰り返す。自ずと継続的な勉強が困難になることから、特に自分も「サーカスの子」だった団員は、我が子の小学校入学前に退団することが少なくなかった。サーカス版「小一の壁」である。夢の大テント内の“家族”から血のつながった「家族」へと生活基盤が変わったとき、彼、彼女らは夢から覚めるのだった。
第一章の主人公である井上美一さんの人生は殊更象徴的だ。彼女はかつて鉄線綱渡りの「ガネ」や一輪車を得意とする芸人だったが、テントの住人になる前は孤独な道のりを歩んできた。
青森で育った美一さんは、大好きな父親と祭りやサーカスへ行くことに幸せを感じていた。だが、小学五年生のとき、父が自ら命を絶ってしまう。残された家族ともうまくいかず、孤立していく彼女の心を慰めたのが歌だった。
美一さんが非凡なことは、高校生のときに挑戦したヤマハの音楽コンテスト「ポプコン」の東北大会で、自作の曲を歌ってグランプリを受賞したことからも分かる。しかし、上京して歌手デビューしたものの挫折。ゆかりのない大都会で寂しく暮らす中、ラジオ番組のレポーターとして取材へ行ったのが「キグレサーカス」だった─。
一九七七年からの三年間、後楽園での公演で連日五千人の観客を集めるなど「キグレサーカス」は絶頂期を迎える。美一さんが団員になったのはまさにその真っ只中だった。
「サーカスの子」として生まれ育った花形芸人である駒一さんと“職場結婚”し、二人の男児を産んだ。夫と舞台に立ちながらみんなで子供を育てる。そこにはもう孤独の影はなかった。だが、子供に外の世界も見せてやりたいという親心が「小一の壁」に突き当たる。
長男の小学校入学を機に美一さん一家は団を離れる。最後の日、ともに暮らしてきた“家族”とは抱擁を交わすこともなく、見送りもなかった。故郷の青森へ帰るときの「新幹線のホームにぽつんと四人だけで立っている光景」が、家族と家族的であることの間に明確な線を引く。