三連星:絵画=彫刻=写真。清水穣評 金氏徹平個展「POOOPOPOO」
3年毎の定点観測、森美術館の六本木クロッシングでは、「社会的関与」の徴のもとに(例外はあれ)なんとも単調な展覧会が繰り広げられていた。2023年の日本のアートが文脈に依存し、それを支える言説(教科書)と制度に依存していることがわかる。社会的「問題」について「リサーチ」し、その結果を絵画や写真、立体やインスタレーションというかたちで表現するこれらの「アート」に真面目に付き合う気が起こらないのは、その問題への切迫した当事者性を召喚できなければ、それはたんなる情報として消費されて終わる(「そう、誰にとっても深刻な問題ですよね」)ことに対して、作家側が危機感を覚えているようには見えず、当事者性が啓蒙によっては生まれないことを承知のうえで、その「情報」を自分好みのメディアで表現するだけだからである。絵である必要がない、写真でなくてもよい。ヴィデオでもよく、立体でもよい。壁面の解説を読めば、残りは「美術館で展示」するためのアリバイにすぎないから一瞥で十分だ、と。
森美術館からcomplex665やピラミデビルへ向かう人が、途中、森タワー隣の建物の3階に移転したYumiko Chiba
Associatesに立ち寄るなら、「交差点」とは対照的に「問題」のありかを教える解説がなく一瞥では何もわからない、じつに反時代的で爽快な個展を目にするだろう。最近移籍した
金氏徹平
の強烈な新作群が、満を持して展示されている。その主題は、絵画であり彫刻であり写真である(またはそのどれでもない)ものと言えるだろう。青い大作全体に広がる、引っ掻いたような描線に導かれ、サイ・トゥオンブリという参照点が見つかる。
抽象表現主義とポップアート/ミニマルアートのあいだの世代の作家、トゥオンブリは画家として知られた後、1980年代から彫刻作品を、90年代から写真作品を公開し、じつは最初期からつねに3つのジャンルを同時に制作していたことを明かした。その絵画=彫刻=写真を三重に結びつけている本質は「コラージュ」ないし「コンストラクション」である。つまりトゥオンブリが参照した時代は1910年代であった。具体的には、ピカソ/ブラックのコンストラクションとコラージュ(1912~)、デュシャンのレディメイド(1913~)、スティーグリッツのスナップショット(1917~)であり、そこにはキュビスムと色彩、透明性、線と面(線描と色面、グラフィックと絵画、文字と映像)、レイヤーとフレーム、視覚性と触覚性、可視と盲目、垂直と水平……といった主題群が現れ、トゥオンブリの制作を導いていった。
コラージュとは、ある平面に異物を追加して、基底面を露見させる操作である。「表面につけられる最初の一筆が、その物理的な平面性を破壊する」(グリーンバーグ)。コラージュの零度は、モネの水面であり、リヒターのオイル・オン・フォトである。写真に絵具がなすりつけられ、両者のあいだにそれまで見えていなかった透明な面(ガラス、鏡面)が出現する。それまで不可視だったレイヤーを意識させる、つまりわれわれを一時、絵画の「外」へと覚醒させる点で、コラージュは網膜的ではなく、脳内現象──純粋視覚ではなく、無意識の欲望に支配された雑音に満ちた世界の現象──である。しかし、次のステップでさらに異物を追加して新しいレイヤーを重ねるプロセスであるから、「外」の否定でもある。コラージュは、地、ゼロ、白、透明……等々、次元を問わず、存在するものの基底を意識にもたらし、そして否定する=更新する操作なのだ。それはシュプレマンの運動(デリダ)であり、繰り返される「基底」(レイヤー、地の面、意味のフレーム)の脱構築であった。したがって、コラージュという、究極的にはアンチ・レイヤーのプロセスが終わるのは、安定した「外」が見えてしまったとき、つまり、いちばん奥の面が特定され、全体が透明な層に分離して見えたときである。
金氏徹平の新作もまた、絵画=彫刻=写真の三連星として成立している。今回のメインである「絵画」(あるいは壁面)作品の上にコラージュされている要素は、彫刻の部分写真、様々な描線(フリーハンド、直線、ストライプ、ストローク)やパターン(網目、スプレー、擦過や剥離の痕跡、幾何学形態)、さらにその描線やパターン自体の写真であるが、これらが重層しつつ同時に、物理的に盛り上がった三次元性と二次元的なイリュージョンのあいだで、正の形態(シール)と負の形態(シールを取った残りの台紙)のあいだで、さらに光沢と反射が視線をはねかえす部分と吸収する部分のあいだで、めくるめく展開を見せ、ところどころで矛盾しあっている。上から転写されたイメージと無関係に画面上に浮かび上がる筆跡は、名画の複製画にランダムにつけられた偽の筆跡のようであり、皮膚下の血管のようでもある。成功したコラージュとして、全体は複雑を極めた多重性を示しつつ、どの層をも特定させることがない。画面上で展開するこの豊かなダイバーシティ(矛盾しあう方向性の共存)は、トゥオンブリよりは晩年のポルケ作品を連想させ、その質は写真に写らない類のものである。写真に撮ると、物質感やサイズ感、その場の光の加減や変化が消えて、作品の風通しが良く、つまり単純になってしまうから、作品画像を信用してはならない。
絵画に写真が混じり込んでおり、壁面作品も床置き作品もコラージュの方法でつくられていることは自明として、それで終わりではない。ふたたび、トゥオンブリの彫刻とは、レディメイド(日用品、廃物、既存の形態)
をコラージュ(組み合わせ)して、新たなフレームを与え(白くペイントし、台座に載せる)、ブロンズで複製するというもので、その基本形は墓標、つまり、かつて何かがそこに存在した徴であることが本質であった。写真もまた、「かつてあった」レディメイドの被写体を、世界から切り取り(フレーミング)、レイヤーのコラージュとして提示し(スティーグリッツの写真のほとんどは小平面・小矩形のコラージュとして理解できる)、それを複製する。トゥオンブリの彫刻とは写真なのだ。
金氏の彫刻(=絵画=写真)もまた、レディメイドをコラージュしてできている。「白いペイント」は初期作品の「雪」として現れていたし、台座もないわけではない。しかしその形態はより多彩で、トゥオンブリのような基本形は見出せず、ブロンズによる複製はありえないだろう。金氏作品が写真とつながるルートは独特のものである。それは作品の部分面に穴を開けて、それを正の形態(切り取られた部分)と負の形態(穴の開いた残りの面)に分割し「対」にすることである。写真とは、世界の分身をつくることなのだ。金氏のすべての作品は、いまでなくともいつか、ここでなくともどこかに、「対」となる分身を持ち、そこへつながっているので完結しない。「穴」は物理的な穴であるとともに、全作品を共約するミクロの外部なのである。
新たな舞台でデビューした「絵画」作品には、まだまだ発展が期待される。例えば、2008年に秋田で初めて発表された、「絵画」的な白いコラージュ作品には穴が開いていた。いっぽう今回の平面は堅固に閉じており「穴」は開いていない。「画面」の統一性は保たれているが、そんな留保は必要か……等々。
(『美術手帖』2023年4月号、「REVIEWS」より)