[ARTIST IN FOCUS]遠藤薫:弱さゆえに逞しい、「工芸の両義性」が生み出すもの
「小学生のときから薫ちゃん、沖縄で暮らしたいゆうてたなあ」
「困ったら、ヤシの実とか釣った魚食べてどうにか生きてゆくとか、ゆうてたな」
遠藤薫の小学校の同級生は、彼女の故郷、大阪府の中之島美術館
で行われた個展を見るなり、そう語ったらしい。本展は、沖縄の石垣島で1950年代頃まで日常的に用いられていた丸木舟、いわゆるサバニ舟を中心に構成されている。遠藤は、この丸木舟の帆を、糸芭蕉の繊維で織られた芭蕉布と、米軍払い下げのパラシュートを組み合わせてつくり上げた。琉球王朝時代から続く芭蕉布も、軍用品のパラシュートも、ともに沖縄のたどった歴史を体現する布だ。さらにこの船の向かう先は、実在しない島、“南”波照間島(パイパティローマ)。苦しい生活から逃れるためか、海流を逆流してでもこの架空の島を目指す伝説が八重山諸島に伝わっているらしい。遠藤はこれら複数の要素を組み合わせ、島々の暮らしと歴史、そのなかで育まれてきた想像力を示したのである。それにしてもこの展示につながる片鱗が、すでに小学生時代にあったとはどういうことだろう。最初に、彼女と沖縄、そして「工芸」との出会いに遡ってみたい。
彼女と沖縄との出会いは10歳頃と聞く。彼女は偶然、琉球ガラスを代表する工芸作家、稲嶺盛吉をテレビで見て強い衝撃を受けた。稲嶺は気泡や魚の骨、籾殻をも廃材のガラスに混ぜ込む再生ガラスの作品を手がけており、幼い遠藤にとって「地球を丸ごと飲み込んだもの」のように見えたそうだ。こうして沖縄と、かの地で営まれる「工芸」に一度に出会ってしまった彼女は、沖縄への思いを募らせ、いよいよ大学進学を機に沖縄へ向かう。
そこで彼女はまた大きな発見をする。紅型(びんがた)の復興に関する授業にて、一般的に想像されるような「古典」や「伝統」とは異なる沖縄の「伝統工芸」の在りようを知るのである。紅型は沖縄の気候風土に根差しながらも、中国などのアジア諸国や、日本の本州の染色文化の影響を受けつつ発展してきた技法である。さらに第2次世界大戦後、すべてが焼失したなかにあっても紅型は、米軍の薬莢を転用してつくられた染め道具や、米軍のレコードを代用したヘラによって復興を遂げる。つまり、いかにも「伝統的」で沖縄らしく見える手工芸には、近隣諸国との交易の軌跡と、琉球処分から第2次世界大戦下での地上戦、その後のアメリカによる占領と復帰の歴史が、内包されているのだ。このことから彼女は、「伝統工芸」と目されるものであっても、必ずしも純粋、純血なものとして存在しているわけではないと知る(*1)。
そして、これこそが稲嶺の琉球ガラスに、幼い遠藤が惹きつけられた要因に違いない。彼のガラス作品もまた、米軍が各地に持ち込み、飲み捨てたコーラ瓶を原材料としているからだ。政治や権力に翻弄されながらも、支配者にとっての不用品を時に有用な素材へと読み替え、美しさをそこに宿らせる日々の営みこそが、彼女にとっての「工芸」が生まれる場所なのだ。
「工芸の両義性」、あるいは生活と政治
こうした様態について、遠藤はしばしば「工芸の両義性」という言葉を使って説明している。政治権力や軍事、差別の歴史が、物づくりを成り立たせる背景や条件のうちに組み込まれているためだ。
例えば国際芸術祭「あいち2022」では、愛知県一宮市で発展した毛織物産業の工程や質の高さに注目するのみならず、その歴史へと分け入った。遠藤いわく「もともと日本には在来種としての羊はいなかったのに、近代化の流れのなかで欧州から輸入されました。毛織物は、ひ弱な人の体を包み、守りますが、いっぽうで、大陸に侵攻するために温かなウールの軍服が必要になったという側面もあるのです」。
加えて彼女は、毛織物産業に欠かせない羊と女工にも着目する。羊も女工も一宮を象徴する存在で、産業が活気を呈していた時代、女性たちは「織姫」と呼ばれ、いまでもこの地域は日本三大七夕まつりの開催地として知られている。翻ってみると、女性は毛織物産業のなかでそれほどまでに重要な働き手だったのだ。遠藤は、産業と人、物づくりの関係に想いを寄せつつ語る。
「工場が若い女性の教育機関としても機能していたこと。劣悪な労働環境を変えるべく起きた労働運動の歴史。ひたすら技術の向上に努め、美しいものを生み出そうとしてきた職人の努力。それぞれの立ち位置から社会や物づくりと向き合ってきた人々の痕跡を、手でなぞるようにして制作に向かいます」。
こうして、遠藤は廃棄された羊毛を撚り合わせ、パラシュートを織り上げた。遠藤にとってパラシュートはまさに「工芸の両義性」を象徴する存在であるためだ(*2)。
「パラシュートの当初の目的は、人命を守ることであったはず。それにもかかわらず、近代戦では多くの人を殺める目的で生産された。このパラシュートの両義性は、毛織物のそれと重なり合う」。最終的にパラシュートは、星図のように広げられて展示され、羊飼いと星読みをめぐる物語や、織姫伝説をも想起させるものとなった。
「工芸や物づくりと、政治、生活は切り離せない。女性たちの手による織物が軍服に仕立てられ、戦場で用いられることもあれば、アメリカ軍ゆかりのコーラ瓶が琉球ガラスとして生まれ変わることもある。美しい工芸品は、決定的な意志に貫かれたというよりも、置かれた環境のなかで生きるために、祈りの手を動かしていった結果なんじゃないかな、って。時代ごとの不均衡な権力や政治。意識下・無意識下にかかわらずそれを織り込んで生まれてしまったものたちに、ふれていたい。私も、もれずにそうやって日々を生き、いまここにいること、私はすぐに忘れてしまうから」。
体を投げ出す、ものを使う
調査、制作にあたり、彼女はできるかぎり現地に長期滞在し、自分の手を動かしている。先の芭蕉布も、米軍基地のバナナの木を手で切って繊維を取り出すところから始めていた。一宮でも、子羊を手づくりの青銅ナイフで解体、剥皮し、その羊皮を乾かす横で、糸寄りと織りを進めていた。去年、発行された書籍『銀座』も、全都道府県に残る「銀座」の名を冠する町々を2年かけて訪ね歩いた労作だ。目を見張るような行動力と身体の酷使について、彼女は「本を読むより体で実感しながら学ぶほうが合っている」と語る。それは確かに、手工芸に携わる者らしい説得力に満ちている。ただそれのみならず、一連の活動からは「規制下にあって身体が開く可能性」と「実用することで生まれる価値」という2つの要素も看取される。
そんなパフォーマティヴな特徴がよく表れているのが、ベトナムで制作、発表された《Uesu(Waste)》(2018)である。ベトナムでは政府の許可なしには作品展示もできない。しかし、雑巾で街を掃除しているという体裁を保てば、無許可であっても取り締まりの対象にはならないだろう。遠藤はそう考え、市場で集めた古雑巾を重ね合わせて巨大な「画布」をつくり、数人掛かりでその布で路上を擦って回った。それは、雑巾掛けのように見えるが、画布の表面を研磨し絵画を制作するライヴ・パフォーマンスでもある(*3)。つまり、街に身体を投げ出し掃除という体を保つことで、公共空間での芸術活動が可能となった。無許可の芸術活動の禁止という規制に穴を穿つことができたのである。
さらに、《Uesu(Waste)》における雑巾掛けは、規制をかい潜る方便である以上に、布という素材を有効に使い倒すための手段でもある。手でふれ実用してこそ、価値が増すという彼女の考えが反映されている。それは明らかに、
民藝運動
のスローガンとなった言葉「用の美」ともつながる。事実、彼女の活動を「使用」という観点から眺めると、パラシュートの作品をつくるたびに、それを広げて風圧を体感してきたことに合点がいくだろう。それこそがパラシュート本来の用途であるため、まずは風を受けないといけないのだ。
大阪中之島美術館で展示された丸木船も、展覧会終了後は造船所に申し込めば海上をクルーズできるよう設計されている。彼女は、厳しい状況に対して抵抗のアクションをするのみならず、使用を通して物の価値を高めるべく、何度も繰り返し自分の体を差し出しているのではないだろうか。
弱く脆く、でも生き続ける
愛知の旧織物工場のオーナーの祖母にあたる女性が語った言葉を、遠藤薫はたびたび思い返すと言う。「弱虫だから生き残れた」というものだ。第2次世界大戦時、周囲の人のように自決する勇気がなかったために生き残ったというこの高齢女性は、自らの経験を先のように表現したのである。これを遠藤は、弱さゆえの逞しさ、あるいは、マイナスを強さへと転換して生き抜くことだと解釈した。それはまさに廃品を材料にし、再利用ゆえの気泡をも意匠として活かす、稲嶺の琉球ガラスとも通じる発想だ。
実際《Uesu(Waste)》のように彼女が作品を道具として扱い、磨耗をも積極的に受け入れるのは、物の脆弱性を愛しているがゆえである。「強いもの、完璧なものを求めすぎると、どこか窮屈でつらくなってしまう。だからちょっとくらい壊れたり欠けたりしても、むしろそうでなくては、と考えたい。そして、過ぎゆく時間も終わってゆくものもそれでいいと思えるようにする。繕う行為そのものや、その痕跡が綾のように積み重なって記憶になることが、ただ真っ新よりもなんだかうれしい」。遠藤にとって「工芸」とは、時々の不足を補うようにつくり出され、人の手にふれられ壊れ続けるなかで生を全うするものなのだ。こうした考えを持つ遠藤にとって、「弱虫だから生き残れた」という言葉は、強く響いたはずだ。
「戦時中に、万歳と言って自決した人たちは、キリシタン弾圧の際、最後まで信仰を捨てず、ひどい殺され方をした信心深いクリスチャンとも重なるところがあって。反対に、信じることを捨てた人たちの話には、いわゆる強さとか弱さが混ざって、どちらがどうだとか、全部わからなくなる。どちらにも私はひどく共感して、もっと知りたくなります」。彼女は、長らく関心を抱いているキリシタンの歴史にもふれながら、弱さについてそう語った。
弱いからこそ、時代と地域を超えて生き延びられる。この様態はまさに、可燃性で土にも還りやすく長期の保存は困難にもかかわらず、人類が使い続けることで現在にまで残ってきた「織物」そのものである。彼女の活動は、あらゆる両義性を包む「織物」、この「工芸的なるもの」とともにある。
*1──遠藤は、時代ごとの支配者のあいだで揺れてきた沖縄の物づくりや工芸について、沖縄県立博物館・美術館での「琉球の横顔―描かれた『私』からの出発」展(2021~22)にて取り組んでいる。この展示をはじめ遠藤と沖縄については、沢山遼「遠藤薫《重力と虹霓・沖縄》を読む。パラシュートとコーラ瓶がつなぐ、工芸、沖縄戦、ポップアート、宇宙主義」『Tokyo
Art Beat』(2022年9月8日)
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/endo-kaorigravity-and-rainbow-okinawa-insight-2022-09
[最終アクセス2023年4月25日]に詳しい。
*2──事実、パラシュートは青森、沖縄、愛知、神戸と、その地域ならではの材料、技法を用いながら繰り返し制作されている。遠藤の表現におけるパラシュートの意義については先に挙げた沢山の論考に詳しい。
*3──「遠藤薫はアイデアで取り締まりをかわし、規格外の変化球を投げる」『CINRA』(2019年8月29日)
https://www.cinra.net/article/interview-201908-endokaori_kawrk
[最終アクセス2023年4月25日]
(『美術手帖』2023年7月号、「ARTIST IN FOCUS」より)