自らの悪行を「近代的自我による苦悩」のように描いた作家・森鴎外の“露悪趣味”〈dot.〉
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近代文学は「自我」を描くために生まれた。ではその「自我」あるいは「近代的自我」とは何か?
今を生きる多くの日本人にとって「自我」とは、自己についての抽象的で幅広い概念、「自分とは何か?」という命題を指すだろう。しかしこれが文学における「近代的自我」となると、意味が少し限定される。簡単に言えば、明治期の青年たちが、西洋の合理主義と古い体制に挟まれ、自己について考え苦悩する姿を一般に「近代的自我」と呼ぶ。そして、それを初めて小説という形にしたのが、森鴎外の代表作『舞姫』だった。
主人公太田豊太郎は、将来を嘱望されドイツに国費留学した官吏だったが、貧しい踊り子エリスと恋に落ちる。出世か恋愛かという選択だけではなく、彼は小さな新興国日本を背負って苦悩する。また主人公のモデルとなった森鴎外自身には、それに加えて、「森家」という巨大な存在が双肩にのしかかっていた。
この作品が書かれたのは、樋口一葉の「たけくらべ」より早い一八九〇年(明治二十三年)。新しい国の形がおぼろげながら見えてきた時代と言えるだろうか。この頃、一定の学問を修めた青年たちは、皆、何かに戸惑っていた。自分たちは近代国家を作り、その中で様々な「自由」を得たはずだった。努力すれば出世できる世の中、身分を超えた恋愛……。しかし一方で、彼らは自分たちが家や国家に強く縛られていることにも気がついていた。そして、その戸惑いを言葉にできないことに、さらに苛立ってもいただろう。エリート青年たちの苦悩や苛立ちは、さらに一層複雑で屈折していた。