岩田温の温々熱々 戦歿学徒を批判した哲学者の醜い変節
だが、出隆の戦前、戦後の著作を丹念に読み解くと恐るべき事実が浮き彫りになってくる。
戦時下の昭和19年に刊行された『詩人哲学者』では、「水の杯を出陣の学徒に献ぐ」が「序に代えて」として付されている。戦時下とはいえ、なかなか勇ましい文言が並んでいる。
「滅私なくして奉公はない。ですから皆さんも、今度入営されるときには、私を殺して皇軍の一兵卒に成りきって戴(いただ)きたい」
「諸君は死の準備を、死の稽古をして来られたのである。諸君にはすでに、美しく貴い死への用意は十分である。偉大なる生にまで死ぬる稽古は先づ終わった。今こそ実地に美しく鮮やかな死を死にきって戴きたい」
出陣する学徒を前に、美しく鮮やかな死を望むとまで断言する東京大学教授、それが戦前の出隆の姿だった。学生が国家に殉ずることを是とするだけでなく、むしろ「美しく死んでくれ給(たま)え」とまでいうのだから、死を煽(あお)ったといわれても致し方あるまい。
戦後、出隆は『詩人哲学者』を刊行する際、「序に代えて」を削除し、知らぬ顔を決め込む。占領軍の統治において、軍国主義的思考を有すると判断された大学教員は著作によって公職追放された。出が「序に代えて」を削除した動機が公職追放と関連していたのか否かは今となっては確かめる術がない。
生きていくために、自らの節を屈したとも理解できる。誰もが生きていくことに必死であった終戦直後、多くの変節漢が現れた。家族を養うため、自らが生き延びるため、昨日までの勇ましい言説を変え、民主主義を礼賛し始めた人々が多かった。何も大学教員ばかりではない。小学校、中学校の教員もまた、昨日までの生徒への勇ましい訓示をなかったかのように、民主主義を称揚し始めた。幼き日の石原慎太郎が衝撃を受けたのは、日本人の変わり身の早さだった。戦に負けて明らかになったのは、日本人の醜悪な姿だった。
だが、出の場合は更(さら)に凄(すさ)まじい。戦歿(せんぼつ)学徒の遺稿をまとめた『きけ わだつみのこえ』は、終戦後の日本におけるベストセラーだ。この遺稿集そのものが編集部によって改竄(かいざん)されていたのは周知の事実である。それ自体が死者に対する冒瀆(ぼうとく)なのだが、出隆は戦歿学徒の遺稿を読み解きながら、死者を漫罵する。
東京大学経済学部から学徒出陣したある学徒の絶筆は次の通りだ。
「父上様、母上様 元気デ任地ヘ向イマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生デシタ・・・」
この絶筆に対し出隆は「絶筆とは言え、あまりにも平凡なメモ」と断じ、この種のメモ書きすら採用しなければならなかったとは、いかに遺稿の大部分が「貧弱」であったかは「推して知られる」という。さらに、こうした貧弱な知性は、戦争を感情的に忌避するだけで実際には戦争を止められず、「聖戦」という名の侵略戦争、「屠殺(とさつ)場」に投げ込まれただけだったとまで言い切るのだ。
出隆に従えば、あの世界大戦は「帝国主義的独占資本とその手先の仕業」なのだが、戦で散っていった学徒たちはこうした「悲劇の本質」を知らなかった。 「小さな狭い自己と人情とをうちに見ることは知っていても、横につながる多数の人民大衆と大きな世界の情勢とを、真実につかむことを知っていない」。ただし、それは学徒らの罪ではなく、そうした状況に追いやった戦争の首謀者たちがマルクスやレーニンを学ぶことを禁じていたからだ。要するに共産主義の立場から戦争を眺めることの出来なかった愚かな学徒の手記、それが『きけ わだつみのこえ』だというのだ。
戦時下において「美しく鮮やかな死を死にきって戴きたい」と煽りに煽った男が、実際に戦死した学徒を「愚者」と指弾する。これほど醜悪な姿はない。
知性と倫理とは、必ずしも共存しない。出隆の変節は人間の知性の限界、醜さを我々に示している。
■いわた・あつし 昭和58年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。専攻は政治哲学。一般社団法人日本学術機構代表理事。著書に『政治学者、ユーチューバーになる』など多数。