落合陽一 真に面白いものは本とヒューマニティから生まれる
――研究、テクノロジー、アート、ビジネスなどマルチな領域の最先端で活躍されている落合さんが、新刊『忘れる読書』ではオールドメディアである本の重要性についてお書きになっています。なぜ今、本に注目されたのですか。
インターネットがこれだけ発達したとはいえ、一般の人がアクセスできる情報は今でも限られています。多くの本が電子アーカイブ化されるようになっていますが、それでもまだ十分ではないと思います。研究者は大学で購読している論文誌を手に取ったり、オープンソース・ライブラリーへアクセスしたりしてもっと多くの情報を入手できますが、一般の人はそうではありません。やはり現在でもデータベースとしては本が優れていると思います。本は構成も練られていることが多いので、圧縮された情報を効率的に摂取できるメディアだと思いますね。
――情報環境がこれだけ変わった今でも、まだまだ本は終わったメディアではない、と。
本は人類が文字を持ってから、数千年かけて築かれた文化です。パピルスを巻物にしたものも本だとすれば、紀元前数百年前後から発達してきたものですよね。長い歴史の中で揉まれてきたことを、ばかにはできません。
私のようなコンピュータサイエンスを専門とする人間は「実行時間」×「データ量」×「投入する計算機資源の量」というフェルミ推定をよく使います。その考えを当てはめると、長い時間、膨大なデータ量、多くの処理人数が投入されてきた本というメディアは、人類の歴史というプロセスを経て最適化されているんだろうと思います。
――人類の歴史というスケールで考えると、本も効率のいいメディアなのですね。一方で、昨今の効率重視のまとめ動画などはどう捉えていますか。
私は新しいメディアが生まれたり、既存のメディアが新たな方法で使われたりすることを人類の進化の過程と見ているので、まとめ動画のようなものもある程度は肯定的に捉えています。しかし、それによって失われる能力や知識もあると批判的に見ることもあります。
動画と本を比べると、動画の方が優れている点ももちろんあると思います。たとえば、スポーツ選手が新しい技術を覚えるためには、本よりも動画で学んだ方が効率的ですよね。そういう身体知を身につけるのに動画は優れています。ただし、動画は自己反芻が少ないメディアだとも思います。時間的に一方向に流れていくのを見るだけで、行ったり来たりして何度も見返しながら視聴することはほとんどないかもしれませんね。
それに対して、本は言語を使うので、身体知以外のタイプの知識を獲得するうえでやはり優れていると思います。人類にとって身体知は大事ですが、身体的ではなく、動画にするのが難しいような事象もたくさんありますからね。また、本はページを行き来しながら能動的に読むことが多く、その内容を自身の頭の中で反芻するのにも適しています。
メディア論の代表的な論者であるマーシャル・マクルーハンは、かつてメディアをその解像度によって分類しました。彼の分類では、テレビ、漫画など受け手が補完する度合いが高く解像度が低いものを「クールなメディア」、反対に映画、書物など受け手が参与し補完する度合いが低く解像度が高いものを「ホットなメディア」と分類しました。その分類にしたがうと、今の動画メディアには解像度の低いクールなメディアが多いと思いますね。