20世紀・最大の哲学者と最高の詩人の「出会いとすれ違い」
されたツェラーンに引き合わされたとき、ハイデガーは自身の「過ち」を決し
て謝らなかったとされてきました。
ナチス加担をめぐって人びとがハイデガーに求める反省と彼自身の反省のすれ違いは、ユダヤ人の詩人パウル・ツェラーン(1920―1970)とハイデガーの出会いと交流において先鋭化された形で示されることになった。
両者の関係は、通常はおおよそ次のように紹介される。ツェラーンは1967年7月、ハイデガーのトートナウベルクの山荘を訪れた。その際、両親を強制収容所で殺されたツェラーンはハイデガーにナチス加担についての明確な謝罪を要求したが、期待した言葉が得られなかった。この「沈黙」に大きな失望を抱いてツェラーンは山荘を立ち去った――。
人びとはこの逸話から、ナチスによる被害者の心からの求めに対してさえ謝罪を拒むハイデガーの頑なさ、劣悪な人間性をあらためて確認するのだった。
私自身、ハイデガーの人格についての評価はともかく、両者の関係については右の通説以上の認識をもっていなかった。しかし実際にハイデガーとツェラーンの交流について調べてみると、事実はそうした通説とはまったく異なるものであった。
ツェラーンは1967年7月24日に、フライブルク大学で自作の詩の朗読会を行った。例の山荘訪問はその翌日、7月25日に行われた。朗読会はフライブルク大学のドイツ文学の教授、ゲアハルト・バウマン(1920―2006)が企画したものである。
バウマンはツェラーンの信頼を得た友人であり、『パウル・ツェラーンの思い出』という著作を残している。ツェラーンとハイデガーの交流についてわれわれが知ることの多くは、この著作を典拠としている。