変異が生み出す価値という偶然。椹木野衣評 エキソニモ「CONNECT THE RANDOM DOTS」展
この原稿を書いているのは2021年も最終月に入った12月の中旬なのだが、こういうことをわざわざ書くのは、新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)の感染者数の増減や状況の深刻さが、1年のうちでも時期によって大きく変化してしまうからだ。1年の周期や人の行動基盤、気分を大きく左右してきた季節の変化よりも、いまや私たちの行動原理を支配しているのは、コロナをめぐる状況になってしまっている。これがいつまで続くのかわからないが、「波」と呼ばれる感染者数の増減と1年の周期とのあいだになんらかの相関性が見つかるようになれば、春夏秋冬に代わって「第~波」期というような言葉が使われるようになるかもしれない。
ウイルスの変異がこのように社会にとっても個人にとっても重大な決定性を持っているにもかかわらず、変異自体は予測ができず、完全にランダムに起きている。というより、変異はウイルスが自身を複製する際におのずと起きる複製ミスによるのだから、ウイルスが世界中くまなく行き渡ったいま、変異はつねに起きていると考えたほうがいい。その意味では変異をランダム(偶然)ではなく必然と呼ぶこともできる。
このようなことを考えたのは、エキソニモの個展「CONNECT THE RANDOM
DOTS」を見たからだ。もっとも、この個展で発表されたのは会場で展示された作品に限らない。個展の特設サイトに「CONNECT THE RANDOM
DOTSは、ギャラリーで開始される展覧会と連動し、同タイトルの書籍とそれを取り巻くインスタレーション/Webサイト/ブロックチェーンを接続」とある通り、それ自体が動的な変化をはらむプロジェクトと考えたほうがよい。
具体的には、展覧会と同名の書籍と、そのページをもとに描かれたドローイング、さらにその所有権がNFTトークン化され、ブロックチェーン上に記録されるかたちで販売されるという3つの局面を持っている。この意味では、プロジェクトでもっとも短い時限性を持つのは展覧会のほうであって、書籍の発行と所有権はむしろこれから始まる長い無期限性の端緒についたばかりと考えられる。むろん、こうしたことは今回の展覧会に限らない。図録を伴い、所有者が明示される展覧会ならば、どれも皆そうした性質を持っている。けれども通常、私たちはどうしても展覧会を主役に考えがちだ。だが、どんな展覧会でも一定の時限性を持っていることに変わりはなく、残るのは結局のところ図録であったり、作品の所蔵、所有という権利の問題だから、エキソニモの今回の展覧会は、どのような展覧会もその後の事後性を潜在的に備えていることを、「個展」を通じて明確に可視化したものと言えるかもしれない。
だからだろうか。エキソニモが刊行したこの書籍は、そのタイトルにある通り、ページをめくるごとに増えていくドット(点)に沿って進んでいく。このドットの位置はコンピュータでランダムに決定されており、どの位置にドットを打つかといった作者の意図──通常は美術においてもっとも重要だとされている──は最初から周到に排除されている。ただし、このように順を追って増えていくドットをページに印刷することを、エキソニモが「子供が順番に線を繋いでいくことで絵を描くことができる『点つなぎ』から着想」したとしている通り、ドットを線でつなぐことで、誰もが同じ「絵」を描くことができる。違うのは、子供のための本が、線をつなぐことでなんらかの意味を持つ図像を浮かび上がらせるのに対して、エキソニモの本では順番に点と点を線でつないでも、見えてくるのは抽象的な図形でしかないということだ。これは点の位置と順番が決まっているかぎり、線の太さや色、画材などで偶然程度に多少の違いは出ても、誰が行っても基本的に(必然的に)大きな代わり映えはしない。その意味でもこの「ドローイング」は、個性の表出による独自性を持つことで個的な価値を備えるとしてきた美術作品の概念から大きく離反している。
ところが、この代わり映えがしない必然に、偶然という別の価値を添えるのが、今回のエキソニモのプロジェクトの肝要なのではないか。いや、アーティストが実筆で描いたページはほかの誰かが引いた線とはと違う個別性を備えているのだから、そちらのほうに価値が備わるのは必然ではないか、と感じるかもしれない。それはそうだ。だが通常、私たちが特別な1枚に価値があると考えているのは、そこで引かれた線そのものにその美術家ならではの創作性が宿っていると考えるからにほかならない。
ところがこのプロジェクトでは、そうした創作性はコンピュータによるランダム(偶然)な選択の結果でしかない。その意味では出発点が偶然かもしれないが、最初にウイルスの変異についてふれた通り、ウイルスが自己複製を繰り返すかぎり、そこで偶然の結果としての変異が起こるのはことの必然である。だが、その必然が生み出した無数のバリエーションのなかから、特定の変異(1株=1枚)だけが感染拡大(価値の拡大)に与する意味を持つのは、人類にとって偶然でしかない。
ここから考えたとき、コンピュータが割り出したドットの位置はランダムでも、そうである以上、逆説的にそれをつなぐことで無限のバリエーションが生成されるのはむしろ必然であり、そのなかのただ1枚が美術作品として特別な意味を持つのは、造形的なセンスに基づく美術家の創意工夫というより、すでに偶然の産物でしかない。
この偶然の産物であるところの1枚の絵が、デルタ株やオミクロン株のように特別な意味を持つのは、それが展覧会を通じて販売され、所有が明示され、なおかつその所有権の移動がブロックチェーンを通じて連鎖的に持続していくことになるからだ。つまり、必然的に生まれた潜在的に無限のバリエーションが、偶然の産物に転化したことになる。
いや、それこそが目に見えない所有のような権利の移転も含めて、美術家のバーチャルな造形感覚の産物であって、ゆえに必然なのだ、という人がいるなら、そこから先はもう、偶然が先か必然が先かという長く続く不毛な議論に回収されるほかない。
もっとも、エキソニモによる「署名」を伴う各ページ(変異)の所有者の移転が今度、どのような軌跡を描くかは、あらかじめ誰にも予見することができない。その意味では今後、所有者を「点」に見立て、その権利の移行を「線」になぞらえれば、そこでも偶然の産物としてのドローイング・プロジェクト「CONNECT
THE RANDOM DOTS」が継続していくことになる。
そして本稿の導入を継ぐ意味で、さらに生々しい話であえて文を終えることにすれば、感染者を「点」に見立て、その感染経路を「線」になぞらえることで、「誰」から「誰」に感染が移行したかが不明な、いわゆる「感染経路不明」を通じて、日夜、そこでもまた「所有」をめぐる不吉なドローイングの軌跡が描かれ続けていることになる。それはやがて、ドローイングというよりも一面を線で塗りつぶしたかのような「パンデミック」へと至るだろう。
エキソニモは今回の展覧会に寄せたステートメントで、「ランダムには深い業のようなものを感じる」と書いている。業とは言ってみれば必然のことでもある。本稿に沿って言い換えれば、これを「業には深いランダムのようなものを感じる」としてよいかもしれない。
(『美術手帖』2022年2月号「REVIEWS」より)