【日本の年中行事】 水無月(6月): 富士塚詣・天下祭・土用の丑の鰻・夏越の祓
日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1~12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化の成熟を示す例として紹介していく。
現在のように高層ビルが立ち並んでいなかった時代、富士山は江戸の至る所で見ることができた。東京都千代田区にある「富士見坂」の名は、富士を眺める地に由来する。
富士は信仰の対象だったので、江戸から見るだけでなく、実際に登拝(登山して拝む)したいと願う者も多かった。だが、当時の庶民には、おいそれと旅費を使って行くことはかなわなかった。
そこで、現地に赴くことなくお参りできるよう、土を盛ったり、溶岩を運んで積み上げりして、人工的に小型の富士山を造って代用した。これらを富士塚という。6月朔日(1日)は、富士登山の解禁日に合わせて、富士塚の山開きだった。人々はこぞって富士塚を詣でた。
今も東京には品川富士(品川神社)、音羽富士(護国寺)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)など、各地に富士塚が残る。神社仏閣に多いことからも、信仰の対象だったと分かる。参拝した帰りには、疫病除けのお守りとされた麦藁蛇(むぎわらじゃ/麦で編んだヘビ)を購入した。家に置くと身を守ってくれたという。
水無月は夏祭の時期でもあった。中でも江戸の総鎮守である神田明神の天王祭と、日枝神社の山王権現祭は豪華かつ壮麗で、「天下祭」といわれた。
天下祭と呼ばれた理由は、江戸を代表する祭りが上方に劣っては徳川の威信に関わるため幕府から補助金が出て、山車が半蔵門から江戸城内に入り、将軍が上覧したためだ。天王祭は6月5日~14日、山王権現祭は15日の開催だった(いずれも旧暦)。
山車(だし)と神輿(みこし)の“練り物”(祭礼行列)が見どころだった。とにかく派手に飾り立てていた。「農耕儀礼と結びつき(中略)神霊を迎え奉ずるという本来の祭りから、神と人間の交流の場を思いっきり華やかで派手なものにしたのが江戸っ子」だったのである(『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』/ 河出書房新社)。毎年、天下祭りが2つもあると、幕府にとっても負担が重く、天和期(1681~84)からは隔年で行われるようになった。隔年開催となった。