家計簿に記されたゴッホの署名は本物なのか? 筆跡の真贋と実業家一族の物語が交差する推理ゲームの行方
長野まゆみさんの近刊『ゴッホの犬と耳とひまわり』の書評を、「群像」2023年3月号より再編集でお届けします。
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激しい雨の日に、防水紙にくるまれた小包を「ぼく」が受け取ったところから本書は始まる。赤の油性ペンで「至急開封願う」と書かれた包みの中身は、三つ折りながら自立するほどの厚さの手紙─というより膨大な文書である。近所に住む家族ぐるみで旧知の老文化人類学者河島の、教授時代の講義と同じく脇道と脱線が相次ぐ長広舌を、彼の二人の孫が助手を務めて活字にした口述筆記録なのだった。
肝心の用務というのは、河島が入手したフランス語の文書の翻訳の依頼だったが、論文や書物のような通常のテクストではない。1887年にフランスの百貨店が得意客に配った洒落た家計簿の余白に、異常な密度でびっしり書きつけられた(化学式まで含まれる)フランス語のメモなのである。その手稿の最後に書かれていたのが「Vincent van Gogh」なる署名だった。いうまでもなくあの伝説的画家のゴッホであり、遺された作品すべてが天文学的な金額で売買されるゴッホである。─こうして本書は読者をあれよあれよという間に、一世紀余りの時空を隔てた数奇な推理ゲームへ招き入れる。
もちろん考究すべき主たる問題はゴッホのサインの真贋であるはずだ。やがて現物の全ページをスキャニングしたA4紙の束が第二便として送られてくる。1853年オランダで生まれたヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、27歳で画家を志し、画商をしていた弟の住むパリに出た。そして1888年には、ゴーギャンとの波乱の共同生活を送ることになるアルル地方へ旅立っている。転機を控えたころのゴッホの手稿である可能性がなくはないとはいえ、いかにも眉唾物だ。
しかし本書の基調を成すのは、主題に向かいながらも次から次へと支流に逸れつづけ、エピソードに遊び、はたまた記憶の小路にさまよい入る河島のおびただしい語りである。博識と気まぐれに満ちた講釈に接する知的な愉悦につい感心して巻き込まれるばかりで、主題はなかなか近づいてこない。むしろ乱立する支流と逸話と記憶の細部がいつのまにか結合し、べつの主題を形成しはじめるのだ。
家計簿から派生した19世紀フランスの文化と美術をめぐる話題だけでなく、「ぼく」小椋弥也と河島の周辺の人物関係も多士済々だ。小椋家は画家である「ぼく」の母すみれと妹なつみからなるが、亡き父はアジア系のフランス人だった。一方、河島家は考古学者である長男の種也夫妻、そして孫の海一と海三、珠七たち(珠七は亡くなった三男の娘である)からなる。ちなみに妹なつみは河島家の海一の妻であり、両家は姻族関係で結ばれている。人文学と芸術に造詣が深く、家族の誰かがフランスに出かけることが日常であるような彼らが、そろってこの推理ゲームに一家言を持つのは当然だろう。