[ARTIST IN FOCUS] 百瀬文:孤独な身体が発する声に耳を澄ませて
最初は暗闇。目が暗さに慣れるまで少し時間がかかる。展示室内に響き渡るのはアニメーションの少年役を演じる女性声優の声で、「これは僕の声です」「これは僕の声ではない」「これは私の声です」「これは私の声ではない」という4パターンの台詞が感情豊かに発せられる。部屋の中央にはどうやらマイクスタンドが立てられているようだ。そのそばに設置された電球が、声優が放つ声に連動してチカチカと明滅する。台詞の合間の沈黙、咳払い、声をはり上げる直前の息継ぎ。目が闇に慣れてくると、天井高のある展示室がカーテンで覆われており、劇場を連想させる設えであることがようやく理解される。ただし、劇場とはいっても、ここでの登場人物は姿を見せぬキャラクター=女性声優の純然たる「声」のみである。
十和田市現代美術館での百瀬文の個展「口を寄せる」は、上述したサウンド・インスタレーションの新作《声優のためのエチュード》(2022)から始まる。映像作品を多く手がけてきた百瀬が視覚的要素を極力排したサウンド・インスタレーションに行き着いたのは意外だったが、トーンの微妙な高低差を表現して不在のキャラの身体を室内のここかしこに立ち上げる声優の「声」は、不思議と映像性を喚起する側面がある。その「声」がオーロラのように揺らめき変転する精彩を備えているためだろうか。それとも、情動を揺さぶる台詞まわしがキャラの背景にある物語を勝手に読み込ませるからだろうか。
「ずっと映像作品を制作してきましたが、今回はあえて直接的な映像イメージを扱わないことにチャレンジしています。音だけを使い、鑑賞者の脳裏にどんなイメージを立ち上げられるか。鑑賞者の身体のなかを幻灯機のように照らす「声」の経験をつくりたいと考えました。展示室の壁面全体に吸音材を貼っているので、声が反響しすぎず、鑑賞者の身体の近くで聞こえるような効果になっていると思います」。
もともと「声のテクスチャーに興味があった」という百瀬。では、アニメーションの声優を起用した動機は何か。
「海外の研究者が1985年頃に発表した論文では、日本人女性の声は世界一高いという統計になっているそうです。ジェンダーバランスが整った国ほど女性の声が低くなる傾向にあるのだとか。日本人女性の声もウーマンリブ運動が高まった時代には一時的に低くなったのですが、2000年以降は再び高くなった(*1)。社会的状況や構造が声を変えてしまうことに興味を持ちました。アニメのキャラクターの声にしても、私たちは何をもって「少年的」「女性的」と判断しているのか。新作では「声の流動性」を職能としている声優の方に少年から女性までの声をグラデーションで演じるように依頼しています」。
口と「声ならぬ声」
十和田市という土地柄もあって、「口を寄せる」という個展タイトルからは青森のイタコがただちに想像される。他方、英語タイトルを見ると「Interpreter」とある。死者をみずからの身体に憑依させてその言葉を現世の者に伝える「口寄せ」も、他国の言葉を自身の解釈を通して自国語に組み立て直す「通訳」も、「声」の媒介者という役割は共通している。むろん、自身の個性をいったん漂白して与えられたキャラクターを引き受ける声優のような職能も、媒介者の系譜に加えることができるだろう。それにしても、なぜ「口」なのか。ぽっかりと大きく開いた空洞を持つ「口」という漢字は、肉感のある視覚的記号としてタイトルのなかで目を引く。
「口という器官に惹かれるんですよね。言語を伝え合う意思疎通の器官であると同時に、直接他者と唾液を交換したり、動物などの肉を取り込んだりもする。その両義性が気になっています」。
振り返れば、「声」は百瀬の初期作品から重要な位置を占めてきたモチーフだった。嚆矢となるのは、百瀬と聾者である木下知威が読唇術を交えて対話を続ける《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013)。これは、二人の話し言葉が音声だけでなく字幕でも表示される複合的な「声」の構造を備えた映像作品だった。注視すべきは中盤以降。百瀬が画面上に流れる字幕とは微妙にズレた発音へと移行していくことで、相互了解と信頼のもとで成り立つとされるコミュニケーションが根源的な不安定性をあらわにし始めるのだ。ここには、目の前に存在する身体、そして映像上に表示される字幕から乖離していく「声」が紛れもなく響いていた。
ところで、《声優のためのエチュード》で、「これは僕(私)の声ではない」と繰り返される声優の台詞は、過去作《レッスン[ジャパニーズ]》(2015)で語学学習の例文風に復唱される「これはわたしの血ではありません」というフレーズに対応しているようでもある。「声」と「血」にあえて共通点を見出すとしたら、どちらも個人の身体に属すると信じられているものであり、ときに自己同一性の証明や個人認証の手がかりとして使われるところだろうか。ただし、「声」も「血」も、いったん外へと放たれたり流出したりすれば個人の身体からは分離、散逸していく。百瀬の作品には、個人の身体を定める輪郭を、流動的な要素によって揺らがせていくような側面がある。
「同じ台詞を反復させて催眠状態に陥らせることに関心があるのかも。でも、《レッスン[ジャパニーズ]》は制作当時の政治的文脈も影響しています(同作は日韓国交正常化50周年の節目に開催された日韓共同展「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋──日本と韓国の作家たち」(国立新美術館)で発表)。この作品では目の前にいる人に言語を教えるフォーマットをシミュレーションしているのですが、母国語を奪われた被抑圧者の歴史について考えざるをえませんでした」。
マネキンのような表情と装いの女性が「これはわたしの血ではありません」とわざわざ明示する状況はグロテスクだが、身体と血、身体と言語が乖離していく背後には政治的問題が横たわっている。百瀬自身、アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を受けてニューヨークに滞在した時期(2016年度)は、アジア人アーティストとしてアイデンティティ・ポリティクスの問題に直面することになった。「ちょうどトランプ政権樹立の頃。ニューヨークに行って、声を上げることもままならない人たちをたくさん見るなかで、声を出せる時点で特権的なことなんだな、と。自分もあまり英語が喋れなかったので、もどかしい思いをいっぱい経験しました。白人男性がつくり上げてきた美術史のスタンダードに対する疑念も生まれ、1、2年くらい何も制作できない時期が続きました。帰国して最初に制作した《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》(2019)は、声にすらならなかったもの、呻き声のようなものがテーマになっています」。女性(百瀬)がまばたきのみで非言語のサインを見る者に送る同作は、言うなれば「声ならぬ声」の極北的表現だったのだ。
コミュニケーションの回路
その後、ポーランドで施行された人工妊娠中絶禁止法への怒りを契機に《Flos
Pavonis》(2021)が制作される。同作は、百瀬とポーランドに住む女性の往復メールという体裁を取ったフィクションであり、百瀬の作品のなかでは「国家が管理する身体」への強い反抗があらわれた政治的メッセージの強い作品となった。カメラワークも複雑な構成で、映画作品の仕上がりに近い。ここから《声優のためのエチュード》への展開を見ると、作家がいくつもの手札を持っているようにも見える。
「私の制作の展開は、いつも3本くらいの関心の柱が立っていて、それを螺旋状にぐるぐるとめぐる感じ。ひとつの柱に手をつけたら、次は別の柱というふうに移っていく。螺旋だから以前のテーマに戻ってくることもあるけれど、同じ地点ではない」。
実際、百瀬のこれまでの活動を見ると、「声」というモチーフに対しても、様々な回路からのアプローチが見受けられる。本展出品作でいえば、聾者の女性が恋人の男性と諍う《Social
Dance》(2019)では、手話という視覚身体言語が「声」を代理する。眼科医による視力検査にイラストのサインで百瀬が応答する《The
Examination》(2014)は、二人のあいだで「声」が発せられないだけにコミカルな眼科医の表情が「雄弁」となり、それを見返す百瀬の視線も鋭い。「目」が「口」の代わりにぱっくりと裂け開いているのだ。コミュニケーションのある回路が閉ざされているときは、別の回路が開きだす、というふうに、「声」はON/OFFのスイッチングを切り換えながら複数のフェーズで表象されるのである。
孤独な個人の身体
「声」というテーマのほかに、近年の百瀬の作品にあらわれる3DCGといった新メディアにも注目したい。例えば、近作《Born to
Die》(2020)に登場するふたつの開口部を持つ管は、3DCGでつくられたものだ。今展の出品作《Interpreter》(2022)も、一瞬写真か精緻なイラストかと見紛うほどだが、専門家に発注して制作されたCG作品である。
「3DCGには現実以上に過剰に説明されたテクスチャーがあり、それ自体に説得力があります。制作の際、ソフトを起動して、粘土状のオブジェに照明を当ててカメラで撮影する手順があるのですが、ここには撮影するものと撮影されるものの関係性が明確にあって。たとえ仮想のものであっても、ソフトのなかでつくられたものに被写体性を感じます」。
もともとパフォーマンスの記録として映像作品を手がけるようになった百瀬には、カメラの目に射貫かれたいというマゾヒスティックな欲望が制作の動機のひとつとしてあった。それが被写体性への関心として突き詰められ、3DCGのような仮想世界にまで見出されるようになるのは、必然の流れであったと言えるのかもしれない。そういえば《Interpreter》の玩具の台座部分は冷たい大理石調であると同時に、毛細血管が浮き出す生々しい肉体を想起させるところがある。たとえ仮想世界であれ、どこまでいっても身体や情動の問題はつきまとうということだろうか。
かねてより気になっていた質問も。百瀬の作品はときにエモーショナルな反応で受け取られることがある。筆者もその例外ではなく、今回の個展であらためて見た過去作のいくつかに、仕舞い込んでいた感情を刺激される思いがした。自身ではそのような受容をどう考えているのだろうか?
「情動装置としての映像の側面に警戒することもありましたが、自分の扱う作品は普遍的なテーマを持っているんだな、と自覚するようになりました。自分の心の動きは自分では分からないし、泣きながら笑っちゃうようなこともある。私たちの身体は複雑なレイヤーを抱えていて、ひとつの『声』には規定できないのだから、矛盾するような感情も私は肯定していきたいですね」。
コロナ禍を経てますます国家やシステムに身体が管理されていく流れのなか、百瀬は孤独な個人の身体に制作の基礎を置く。「孤独と孤立は違うと思っていて、孤独は個人の尊厳に関わる部分だと思っています。他者の領域を尊重しながら、どう互いの領域に関わり合うことができるか。個人でいるとはどういうことかをよく考えています」。
今後の展開について「表現と生活の境目が曖昧になっていくような活動を考えたい」と語る百瀬の語調には、地に足の着いた落ち着きと意志の強さが宿っていた。
*1──「声の力の再発見/山崎広子」『ModernTimes』2022年8月4日。[最終アクセス:2023年2月17日]
https://www.moderntimes.tv/articles/20220804-01voice/
(『美術手帖』2023年4月号、「ARTIST IN FOCUS」より)