なぜAIと交響曲が邂逅したのか。「人工知能美学芸術学研究会」が挑んだ前衛的交響曲のオーケストラ演奏を分析する
中ザワと草刈らが企画したこのイベントは、音楽と美術が入り交じる複合的な要素で成り立っていた。同ホールのロビーでは、アイヴズの交響曲第4番に関する情報をもとに人工知能(AI)が制作した絵画、この曲のアイヴズ自筆の楽譜、人工美と自然美の交錯点を探った草刈センジンの作品、同研究会による「人工知能美学芸術宣言」の全文などを展示。大ホールではアイヴズの交響曲のほかに、通常の人間には演奏不能というコンロン・ナンカロウ作曲の《自動演奏ピアノのための習作》など数曲が演奏されたほか、音楽評論家の片山杜秀と法学者の大屋雄裕を招いたシンポジウムが開催された。
それにしても、なぜ人工知能(AI)にかかわる研究をしている美術家たちが、交響曲の演奏を主とした企画に挑むことになったのか。また、実現したことには、どんな意義があったのだろうか。
一般の人々には耳馴染みがないと思われる作曲家チャールズ・アイヴズはクラシック音楽の世界では一定の評価を得ており、頻繁とはいえないものの、交響曲第2番などの曲がプロ・アマを問わず演奏会で取り上げられてきた。しかし、交響曲第4番については事情が異なる。作曲後100年経っているにもかかわらず、少なくとも日本で演奏されたのは、今回のイベント以前にはNHK交響楽団などによる3回のみ。海外でも演奏機会は限られており、稀少感があると聞く。
演奏されにくい理由のひとつがオーケストラの編成にあることが、実際にイベントに出向いてよくわかった。混声合唱、独奏ピアノを含む計3台のピアノ(うち1台は調律を変えた四分音ピアノ)、オルガン、2台のハープ、オンド・マルトノという電子楽器、たくさんの特殊な打楽器、さらにはステージ外にも演奏者グループを必要とする大編成なのだが、もっとも特殊なのは、指揮者が3人いることだった。
今回の演奏ではひとりの指揮者は通常の指揮台に立ち、もうひとりはそのすぐ横に立って中央の指揮者とは異なる方を向き、あたかも異なる曲を演奏しているかのような動きを見せていた。見る指揮者が奏者によって異なる部分が随所にあったのだ。3人目の指揮者は客席の出入り口のドア近くから、客席後方部にしつらえられた奏者グループに向かって指揮棒を振っていた。
指揮棒の動きにすべての奏者が従うという点で、指揮者は普通はオーケストラに秩序を与える役割を果たす。しかし、アイヴズの交響曲第4番においては、筆者が見ているかぎりでは、舞台上の二人の指揮者は異なる間合いやテンポで演奏していた。つまり、異なる秩序が同じ空間で同時に存在していたのだ。この曲は、現代音楽の走りと位置づけられるイーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽《春の祭典》(1913年)とほぼ同時期に書かれた。あまりにも複雑な変拍子や、弦楽器を打楽器的に扱うなどの手法でクラシック音楽界に衝撃をもたらした《春の祭典》には、初演が大ブーイングに見舞われるという、すぐれた前衛音楽だったことを裏付けるようなエピソードがあるのだが、アイヴズの交響曲第4番と比べれば、曲の秩序は極めて厳格である。アイヴズのこの曲は、奏者が発する音にも従来の和音や旋律のありようを大きく逸脱した部分が多く、《春の祭典》以上に前衛的な音楽であることが、今回の演奏会ではよくわかった。一方、全4楽章のうちの第3楽章のみがそれまでの伝統を伝えるような美しさを有していたのだが、そのこと自体が音楽を切り貼りしたコラージュのように感じられ、前衛的な印象を残した。
クラシック音楽の歴史も美術史と同じく常に革新的な発想によって塗り変えられてきたとはいえ、秩序の崩壊やコラージュ的な表現の存在を考えると、アイヴズの交響曲第4番は現代美術に近い性質を持った芸術作品である。ピカソとブラックがキュビスムやコラージュを始めた時期にも近い。音楽にも美術にも前衛へのうねりがあり、芸術家たちはジャンルを問わずさまざまな模索をする時代だったのだ。
ここで、もう一つ言及しておくべきなのは、アイヴズの交響曲第4番とAIの関係である。中ザワ、草刈らは2016年に「人工知能美学芸術学研究会」を創設して以降、これまでに42回の研究会を開いている。この曲を演奏することになったきっかけは、ある時、アトリエで作品の制作中、中ザワがこの曲を大音量で流し始めたことにあったという。それを聴いた草刈が曲に強い興味を示し、演奏が通常は不可能に近い条件を持つ極めて珍しい曲であることから、演奏会を交えた今回のイベントの企画に至ったというのである。
ただし、おそらくその経緯だけでは、AIとのかかわりをきちんと説明することはできない。そもそもアイヴズが作曲した当時は、AIはもとより、コンピューターすら存在していなかったのだ。今回の演奏に際して人工知能を利用したわけでもない。では、本イベント名として掲げられている「人工知能美学芸術学」とこの交響曲とは、どうかかわっているのだろうか。
AIは、コンピューターやネットワークを利用して膨大なデータを処理して人間の行動に役立つ結果を自動的に導き出す概念で、自動運転車や音声認識、自動翻訳、家電製品の動作などのさまざまなシステムに生かすことを目指して研究が進んでいる。そうした現在の動向を踏まえたうえで、筆者の視点から、AIとアイヴズの交響曲第4番の共通点を洗い出してみた。以下に列挙する。
* 部分には秩序があっても全体としては秩序がない中で、ある目的に沿った結果を導き出そうとしている。
* コンピューターやインターネットの基になった技術も、アイヴズの交響曲も米国で生まれた。
* ひとりの人間には成し得なかったことを実行しようとしている。
* 既存のシステムや形式を根本から改変しようとしている。
* 美醜や善悪が混在する中で真に価値あるものあるいは益のあるものをすくいあげようと試みている。
* 中心にあるものが重要とは限らない。
この中で、最後の「中心にあるものが重要とは限らない」については、少々説明が必要だろう。AIにおいては基本的に多くのデータの中から有益な情報や傾向を拾い出すのが普通ゆえ、納得してもらえると思う。アイヴズで興味深かったのは、通常はコンサートマスターや首席奏者が受け持つ弦楽器のソロを、後ろのほうに座った奏者に受け持たせることが幾度となくあったことだ。それはそれまでの常識的なオーケストラ曲の秩序を覆し、クラシック音楽に慣れた耳や目に新鮮な刺激を与えるものだった。今回の演奏でも、「そんな場所に重要な音を置いたのか」と目を引き、耳をそばだてざるをえなかった。
こうして分析を進めると、AIとアイヴズの交響曲第4番の間には、意外なほど多くの共通点があることがわかる。今から100年以上前に、アイヴズはAIが作ってもおかしくないような交響曲を作曲したのである。そう考えると、いっそう興味が深まるのではないだろうか。対話型AIの急速な普及が物議を醸している現在において、こうした実例を通して芸術とAIの関係を探ることには、視野を広げて問題に臨む意義があるようにも思う。