電=fの変奏曲。椹木野衣評 生誕110年記念「比田井南谷~線の芸術~」
比田井南谷の《作品1「電のヴァリエーション」》(以下、《電のヴァリエーション》)を初めて知ったときには、かなりの驚きがあった。これが書なのか、という以前に、その自由闊達な筆の動き、形の面白み、本気なのかふざけているのかも判然としない異次元の境地などは、のちの「ヘタうま」を完全に先取りしているように思われた。
いま先取りと書いたが、この作品が書かれたのは1945(昭和20)年、つまり終戦の年である。いったいいつ内地決戦が始まるとも知れないなかで、このような作品が書けるものなのか、以前から不思議に思っていたが、今回刊行された図録で確認するかぎり、終戦後の作品であるらしい。この作品をひとつの起点として、戦後「前衛書道」が花開いていくことになる──例えば、今年の春に東京オペラシティ
アートギャラリーで回顧展が開かれ話題を呼んだ篠田桃紅なども、その流れを汲む。だが、《電のヴァリエーション》は、その後の前衛書道が持つある種の洗練ともまったく異なる趣を持つ。そのことも含め、「書道史上、初めての『文字を書かない書』」(同図録14頁)が誕生するに至った経緯はいったいどのようなものなのか。依然として謎に包まれている部分は多い。
もっとも、手掛かりがないわけではない。やはり今回の図録に収められた本作についての解説を以下、引用する。
終戦直後、南谷は敗戦によって日本の行く末がどうなるか、そして、東洋の独自性に依存した書道が果してその意義をこれからも持ち得るのか、三千年以上連綿と続いた書道の本質とは何か、自らに問いかけ、答えの見いだせない状況に悶々としていた。(中略)疎開先の炬こたつ燵の中で、奇怪な線や点を書いては反古の山をつくり試行錯誤を繰り返していた。煩悶のすえ南谷は「心線」を生み出す。(同前14頁、ルビは筆者)
ここから読み取れることは少なくない。まず第一に、先につい異次元の境地などと書いてしまったが、南谷は決してある種の高みに達したからこのような作品を生み出すことができたわけではなく、相当に迷い、逡巡し、悶々としながら、そのあげくにこのような得体の知れない代物が浮かび上がってきたらしい、ということだ。
そのような苦境に南谷を追い込んだのは、言うまでもなく日本の敗戦だろう。「鬼畜米英」と見下していた外敵に完膚なきまでに降伏させられたからには、書はおろか、漢字の行方さえどうなるかわからない。場合によっては全面的に廃止され、すべて英語に置き換えられてしまうかもしれない、そんなことになれば書はいったいどうなってしまうのか──いっそ文字を書かない「心線」で生き延びるすべはないものか──敗戦直後の南谷がそのように考えたとしても不思議はない。
ただし、このような推測をするにしても、事が書家の心理にまつわるなら、本作が8月の敗戦から12月に至るまでのいったいいつ書かれたものなのかによって、事情はだいぶ違ってくる。それこそ玉音放送のすぐ後のまだ夏も暑い時期で、その意味するところのものがまだはっきりとわからない、というような心理で書かれたものなのか、それとも敗戦から数ヶ月が経ち、多少なりとも日本の迎えつつある命運がわかるようになったぶん、かえって先行きの覚束なさが具体的に見え始めてきた時期なのかによって、その心理は大きく異なる。そして先の引用から類推するに、おそらく事態は後者であったのではないか。というのも、同じ文のなかで南谷は「炬燵の中で」この《電のヴァリエーション》へと至る試行錯誤を重ねていたことがうかがえるからだ。ここでの「疎開先」とは長野県南安曇郡三田村のことで、疎開そのものは敗戦に先立つ5月のことであったが、いかに安曇野でも5月に「炬燵」に籠もるとは考えにくい。年を越してしまえば制作年を越す1946年となってしまうので──先ほど現在のものだが安曇野の年間平均最高・最低気温を確認したところ──早くても10月、おそらくはそれ以降のことで、場合によっては師走=12月のことであったかもしれない。それなら窓の外は雪がちらつき、間もなく敗戦国も新しい年を迎える。「書き初め」が書家にとって特別な意味を持つのは言うまでもない。それなのに、日本の行く末も書の処遇もいっこうに見えてこない。遠い戦地へと駆り出されたかつての同僚や教え子はいったいどうなってしまったことか。南谷は戦時中、参謀本部陸地測量部(現在の国土地理院)教育部の教官であった。測量は軍事作戦において欠かせぬ重要な職務であるから、南谷が徴集を免れたのはそのせいではなかったか。心は内にこもり、そこに文字でさえない「奇怪な線や点」が浮かんでは消えていく。周りを見渡せば「反古の山」である。《電のヴァリエーション》を「作品1」として生み出そうとしつつあった南谷の心理とは、ここであえて会田誠の言葉を借りれば、いわば「こたつ派」のようなものではなかった。
そもそも本作における「電」とは、『古籀彙編(こちゅういへん)十一下』に収められた電の古の原型によるとされている。したがって書面上で乱舞するかにちりばめられた奇怪な形の群れは、この原始的な「電」のヴァリエーションであるはずなのだが、比べてみるとわかる通り(会場では南谷が参照した本人所蔵の原本も飾られていた)そこには少なからぬ変奏(=ヴァリエーション)が加わり、文字通り「文字ではなくなっている」。どうにも得体の知れないものができてしまった。はてこれをどうしたものか。なんとか年を越した南谷が本作を書の展示機会ではなく、6月になって東京で開催された現代美術家協会「第一回現代美術展」に出品したのは、そのような扱いのわからなさが反映されたものではなかっただろうか。
その後、南谷は気を取り直すように作品を「日本書道美術院展」に出すようになる。「現代美術」から「書道」へと逆行するかのような心理の推移は、この「作品1」以降の諸作を並べて見ることができる今回の展示でも実際にうかがうことができた。とりわけ《作品9「電第2」》(1951)は「第三回毎日書道展」に出された作品だが、「作品1」に通じる奇妙な形がやはり跳ね上がるように書かれているものの、その筆跡ははるかに従来の書に通じるものとなっている。このように両者を直に比較する機会が持たれたのは本展の大きな成果のひとつで、そこからして(電の名を冠した2番目の作品である「作品9」が毎日書道展に出されたことも含めて考えると)、南谷の心理(心線と呼ぶべきか)は次第に従来の筆法へと軌道修正されていったように思えるのである。
「電」の話でかなりの紙幅を使ってしまったが、これらのことが確認できた今回の展覧会は、それだけでも大きな意味を持っていた。ほかにも今回の展示では、これまで見ることができなかった南谷をめぐる様々な資料が公開されており、そこには書の世界とはおよそ結びつかない測量地図や戦後、南谷の生活を支えたタイポグラフィの資料も含まれていたのだが、書とは無縁のようでいてよく見るとそこには数々のつながりが感じられ、たいへん興味深かった。
なかでも南谷が中学卒業後、将来を目指すほどに没入したヴァリオリンの演奏を、結局父・天来の意向で断念せざるをえなかったことは初めて知った。もしかすると、本意を遂げることができず書の道を優先した南谷の脳裏に、敗戦後の混沌とした状況のなかで、かつて憧れつつも捨てざるをえなかったヴァイオリンの響きが、にわかに蘇ったということはなかっただろうか。そう考えると「電のヴァリエーション」とは、ヴァイオリンのボディに刻まれた通称「f」ホールや、演奏上の強弱記号である「フォルテ=f(強く)」のそれこそ「変奏曲=ヴァリエーション」ではなかったか(南谷の印にもこれを思わせるものがある)。そもそも敗戦直後に「ヴァリエーション」という、外来で音楽ととりわけ縁の深い言葉が出てくることからして南谷らしいのかもしれない。
愛知県春日井の地で本展が開催されているのと期を前後して、国立新美術館では李禹煥(リウーファン)展が開催中で、東京都美術館では岡本太郎展(太郎の祖父は書家、岡本可亭)が始まった。絵画における書や筆致の問題は、キャンバスに油彩で描いても書は成り立つとし、実際に実践(《作品22》)もした南谷を再び召喚することで、新たな光を放つようになるのではなかろうか。
*本稿執筆のための取材にあたって書家、横山豊蘭氏から協力をいただいた。記して感謝する。
(『美術手帖』2023年1月号、「REVIEWS」より)