『変革する文体──もう一つの明治文学史』木村洋著 評者:栗原悠【新刊この一冊】
ところで試みに今から150年余前、すなわち明治が始まる前後に生まれた文学者たちを星座のごとく並べてみたとき、徳富蘇峰(そほう)という人物はどのように見えるだろうか。
総合雑誌のさきがけ・『国民之友』や『国民新聞』を創刊するなどもっぱらジャーナリスト・評論家として知られ、自ら創作を手がけたわけではない彼は、近代文学史ではベストセラー『不如帰(ほととぎす)』や『自然と人生』の著者である徳冨蘆花(ろか)の兄として、せいぜいがその近傍にちらつく存在に過ぎなかったのではないか。仮に取り上げられるにしても、弟に比べて文学に無理解な功利主義者といった評価がほとんどだった。
ところが北村透谷や内田魯庵(ろあん)、正宗白鳥など当の文学者たちが残したことばを注意深く拾っていくと、そこには意外なほど多く蘇峰へのシンパシーを、それも非常に熱っぽく語ったものを見出せる。そうだとすれば、その人物や思想がのちの文学に与えた影響は、従来考えられていたほど小さくはないはずだ。
そこで本書はかように人々を強く惹きつけた彼の文業のうち、主に明治初期に書かれた政論や人物論といった一見文学からは遠い言説にまず目を凝らしてみる。
そして、その思想的な同伴者・継承者たる二葉亭四迷や志賀重昂(しげたか)など政治と文学への関心を分かち難く同居させていた人々の仕事の先に積み上げられていった思想を辿っていく。
著者は、そこに当時のニーチェ熱に突き動かされ、愛国心や経世家意識を舌鋒鋭く批判した高山樗牛(ちょぎゅう)や、観念小説に厭世をこめた泉鏡花、川上眉山(びざん)などを位置づけ、その後の自然主義、個人主義が育まれていく流れを描き出した。
蘇峰を切り口とした一連の議論は、文学が現実社会を動かす政治や事業から隔絶されたところで人生観や個人の内面への思考を静かに深めていったとする史観を問い直し、さらに政治と文学とを画然と描き分け、前者に力点を置いて後者を顧みない歴史記述のありよう自体に再考を迫るものだ。それはさながら新しい星座を一から作り上げていくような、きわめてアクチュアルな試行と言えるだろう。
そしておそらくはそうしたドラスティックな認識の変更なしには、たとえばそれぞれ反自然主義の旗手と黎明期の自然主義の代表作家と目され、あまつさえ当人同士も批判し合っていた鏡花と国木田独歩を結びつける線が浮かび上がってくることもなかったに違いない。あるいは両者は蘇峰が持ち込んだユゴーへの熱を介して自らの小説に「深い思索」を描き込もうとした点で共振していたのだ。
本書を読み終えた時、読者はこれまでの文学史観によっては気づくことができなかったいくつもの論点が見えてくるだろう。
(『中央公論』2023年5月号より)
木村 洋/評者:栗原 悠(早稲田大学助教)
【著者】
◆木村 洋〔きむらひろし〕
神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。著書に『文学熱の時代』(サントリー学芸賞)など。
【評者】
◆栗原 悠〔くりはらゆたか〕
1987年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は日本の近現代文学。2022年、『週刊読書人』において文芸時評を担当した。