戦時中、漫画に感じたカタルシス 手塚治虫が描いた「本当の戦争」
髪は縮れていて、背が低く、小学校ではいじめられっ子。登校すると、容姿をからかう歌を歌われた。
自分にしかできないものを作れば、いじめられないのでは。そう考え、小学校で漫画を描き始めた。
当時はすでに戦争中で、手塚さんも巻き込まれた。戦意高揚の映画を学校で見て、同級生とは戦争ごっこ。父親も後に出征する。
《当時の子どもたちは、戦争には勝たなくてはならない、兵隊には行かされる。これはひとつのエスカレーターのようなもので、(中略)あきらめていました》(「手塚治虫 漫画の奥義」)
41年。太平洋戦争が始まった年に旧制中学に入学した。勤労動員で軍需工場に働きに行かされたが、昼休みに漫画を描いた。工場長ににらまれても、空襲警報が鳴っても描き、「読者」が欲しくてトイレの個室内に作品を貼った。
明日生きているかもわからない戦時中。漫画を描くことは「カタルシス」(浄化)だったと後年語る。
《描いていることで、ぼくはまだ生きているという感じがしました》(同)
戦争末期の45年、米軍は日本の都市を空から次々に爆撃した。手塚さんが働く大阪も同年3月以降、大空襲が相次いだ。
死に直面したのは工場にいた時。B29戦略爆撃機の大編隊が見え、焼夷(しょうい)弾が頭上に落ちる「キューン」という音がした。
「おれはもうおしまいだ!」。焼夷弾はたまたま、手塚さんのすぐ横を通過。工場は火の海となり、仲間が死んだ。
逃げる途中、川の堤防で「死体の山」を見た。大人や子どもの手足がバラバラに飛び散り、遺体は黒こげになっていた。
《ぼくは、もう沢山(たくさん)だと思った。もう結構。これは、この世の現象じゃない。作り話だ。漫画かも知れない》(「ぼくはマンガ家」)
終戦の夜、大阪の街に出ると、戦時中は灯火管制で真っ暗だった街に、明かりが見えた。