鎌倉殿の史跡・鶴岡八幡宮:将軍・実朝暗殺の衝撃、公武対立へ
鎌倉・鶴岡八幡宮の大石段の脇にそびえる大銀杏(いちょう)の下で、鎌倉殿・源実朝が暗殺された事件はあまりに有名だ。源家の将軍は3代で途絶えてしまった。と同時に後鳥羽上皇と親しい関係にあった実朝の死で、朝廷と幕府の協調体制は崩れ、対立の時代を迎える。歴史の歯車が動き始めた。
実朝は1203年、わずか11歳で征夷大将軍、第3代鎌倉殿となった。兄の2代将軍・頼家が北条氏の手によって伊豆に幽閉(後に殺害)されるという異常事態の中での就任だ。この兄弟を引き裂いたのは、祖父母の北条時政と牧の方。実朝は翌年、祖父母の手による政略結婚で、後鳥羽上皇の外戚・坊門信清の娘をめとる。
和歌など朝廷文化の英才教育を受けた実朝は、吸収力が非常に優れていた。朝廷との往来は活発化し、上皇にも気に入られて、後に「金槐和歌集」を編むに至った。
由比ガ浜に近い国道134号沿いの鎌倉海浜公園に、百人一首にも選ばれた実朝の作が刻まれた歌碑がある。「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」。これは、「世の中がこんな風にいつまでも変わらずあってほしい。漁師の小舟が綱で陸から引かれているような、ごく普通の情景がいとしい」という趣旨だ。「昨日の友は今日の敵」を地で行く非情な時代にあって、平和を願う将軍の優しい心性が見て取れる。
もっとも「公家文化に傾倒する余り、武家の棟梁にふさわしくない」との実朝像は、近年の学説で「誤り」として否定されている。東大史料編纂所の高橋慎一朗教授は「将軍に直属する政所を拠点に自ら積極的に裁判や政治に関与していた」と言う。和歌や蹴鞠(けまり)も単なる「遊び」ではなく、朝廷と付き合っていくのに必要なツールだったと考えられている。
実朝は子宝に恵まれず、「自分の代で途絶えるのなら、源氏の家名を上げたい」として、官位の上昇を望み、実現させていった。権力闘争を通じて、父・時政を追放してまで執権に就いた北条義時も幕府に権威を欲しており、実朝の昇任を歓迎。かくして実朝は公家社会で言えば実質ナンバーツーの右大臣にまで上り詰めた。だが、その栄華の先に落とし穴が待ち受けていた。