台湾の客家(ハッカ)地域で開催。「第2回ロマンチック台三線芸術祭」をめぐる
台湾5県市、150キロに跨る台湾最大の芸術祭「ロマンチック台三線」が6月24日から8月27日まで開催されている。参加するのは国内外55組のアーティストと21組のデザインチームが91のアート作品を制作。台三線とは台湾北部の台北を起点に、台湾最南端の屏東県まで台湾西部の丘陵と台地を走る抜ける南北全長約436kmの道路だが、なかでも客家(ハッカ)の人々が多く暮らす桃園、新竹、苗栗といった西北部は「ロマンチック台三線」と呼ばれており、このプロジェクトは蔡英文政権が2017年より取り組んでいる「客家文化復興」の一環でもある。芸術祭は2019年に第1回目が行われ、今年が2回目の開催となる。
今回のテーマは「花啦嗶啵(ファラビボ)」。客家(ハッカ)の言葉で「彩りが多く美しい」を意味する。客家は現在の中国広東省東部や福建省西部から長い時間をかけて世界中に広がっていった民族で、多民族で構成される台湾のなかでも主要なエスニック集団のひとつであり、台湾人口の約10パーセントを占める。清朝時代に台湾に移民してきた客家は、独自の言葉と生活文化を守り伝える。結束が強く、多くの実業家や政治家を輩出しており、現総統の蔡英文も客家にルーツを持っている。じつは日本との関わりも深い。1895年に日本が清朝より台湾を割譲された際、台湾各地で日本の接収に抵抗する郷土防衛の戦いが起こった(乙未[いっぴ]戦争)。その中心となったのが客家で、そのために多くの人が亡くなっている。
じつは、筆者の夫(台湾人)も母方が客家である。私の持っていた芸術祭の資料をみた夫が思い出したように、「ああ、小さいときにちょっと派手目な柄のシャツを着ておばあちゃんの家に行くと、今日は“ファラビボ”な服ね、と言われたなあ」と言った。義母が親戚らと話している客家語は、私にはチンプンカンプンだ。台湾で公用語として使われる「台湾華語」(いわゆる中国語/マンダリン)とは、方言の違いというよりまったく言語系統の異なる言葉である。例えば、台湾華語で「ありがとう」を「シェシェ(謝謝)」といい、客家語では「アンツッセー」だが、7種類ほどの方言があるので「スンモンニ」という地域もある。
とはいえ、客家って結局何? どういうルーツや文化を持つの?と聞けば、途端に歯切れが悪くなる。そもそも、客家の「客」とは、客家が流浪していった先にもともと住んでいた人々が、「よそ者」という意味で付けた他者視点の名称であり、蔑称である。また、現在の台湾では「客家」のシンボルといえば、アブラギリの花や「客家花布」と呼ばれる原色の派手な柄の布があげられるが、そのどちらも歴史を辿っていけば、もともとはとくに客家のものというわけではなく、ここ数十年で後付けされたイメージだ。よく言われる「質実剛健」「倹約」という客家精神も、文化というにははなはだ曖昧な表現ではある。加えて、現在の台湾では親が客家人でも子供は客家語を話せないという家庭は多い。私の夫も、聴く・話すことは少しばかりできても、普段の生活で使うことはほとんどない。言葉=文化と考えれば、台湾の「客家」は消失の危機に瀕していると言っていい。では、そこで客家の文化を保っていく方法はなんだろうか。一番大切なのは、客家ルーツを持つ人々が「自分が客家である」と自覚する、つまり自分の「客家アイデンティティ」を再認識することにある。これは、オランダ・スペイン、明鄭、清朝、日本、中華民国と、度重なる被統治を経てきた、台湾という共同体が抱えている問題とも共通する。
しかし、名称そのものが他者より付けられた言葉であることを裏返せば、主体的に自分が「客家」であるというのはどういうことなのか、客家とはどこから来て何者なのかを説明することは難しい。とはいえ、言語とともに客家の文化は確かにある。これを、客家集落が集中する「ロマンチック台三線」という道に沿いながら、「客家とは一体なんなのか?」を住人とアーティストが協働して生活文化のなかに探り、そこに来た来訪者たち自身が作品と対話することで客家を認識していく、それが今年2回目を迎えたこの芸術祭の目的のひとつであろう。さらにまた、その生活文化を生み出してきた「土地の記憶」を掘り起こし、ここに客家を含め多様な民族が関わってきた歴史や現状を、生態・産業・飲食・信仰などから「花啦嗶啵(ファラビボ)」を多彩な姿で描き出す。総合キュレーターのエヴァ・リンによれば、2019年の第1回目と今回との違いは、コミュニティに長期滞在し住人と密接に関わりながら作品をつくり上げることのできるアーティストをとくに選んだことだという。以下、数多いアート作品からいくつかエリアを絞って紹介する。
公館(ゴングァン)
苗栗県の公館郷(郷は、日本でいう市町に準じる)は、台湾の中央山脈より流れ出る「後龍渓」の河川敷にある。清朝統治下で台湾に移民してきた客家の人々は、定住する土地を求めてここに来て、以降は苗栗の客家コミュニティの中心地となった。その後、この場所で見つかったのが原油で、1877年に清朝政府はアメリカから技師を招いて近代的な方法で採掘を開始した。なんとこの小さな山村は、アジアで最初の、そして世界で2つ目ともいわれる「油田」なのである。日本統治下で最新型の油田採掘設備が整えられた公館の油田は1927年に歴史的な産出量を記録するが、その後に原油が枯渇してしまう。戦後には中華民国の国営企業「台湾中油」が事業を引き継ぎ、新たな原油層を発見、現在も稼働をつづける世界最古の油田である。
「台湾中油」事業所は、かつての採掘現場を歴史資料館として一般開放されているが、ここが今回の芸術祭における重要なポイントのひとつとなっている。
急な傾斜の上にある坑道からのトロッコ列車軌道の途中にあった、かつての医務室にて作品を設置した、郭柏俞と佘文瑛によるユニット「太認真」は、石油産業ともうひとつ、かつての台湾で大きな輸出産品であり、医薬品やセルロイドの原料であった「樟脳」にスポットを当てた。日本統治時代より使われていた医務室に一歩入れば、清冽なクスノキの香りに包まれる。会場では、伐採されたクスノキが半分に削られて横たわり、クスノキより精製された樟脳の霧が備えられた装置から定期的に放出される。クスノキの表面は黒く塗られ、公館付近の山並みを模して彫り出されている。日本統治時代にもっとも盛んになった樟脳産業において、ここ公館近辺で伐採されたクスノキは台三線を伝って集積地の大渓に送られ、さらに川を伝って台北に送られて工場で樟脳として精製され、世界各地に運ばれた。樟脳は医薬品や防虫剤のほか、セルロイドの原料として重宝された。そして、樟脳の原料となる木材伐採に関わった多くの人々が客家であった。作品の解説をしてくれたアーティストが、施設の売店に飲み物を買いに入った際、まるで親戚同士のように売店の方と和気あいあい言葉を交わしているのも印象的だった。長期滞在して作品とともに築いた地元の方々との関係性を垣間見た気がした。
日本統治時代の石油採掘所の所長が住んでいた6號宿舎は現在、リノベーションされ歴史建築として公開されている。ここでは、日本とアメリカにルーツをもつヴィジュアル・サウンドアーティスト、キュレーター、エディターのキオ・グリフィス(Kio
GRIFFITH)によるアートコレクティブ「クゲヌマ」が、アメリカの石油採掘場の映像やサウンド・コラージュ、インスタレーションによって、過去の石油探査の冒険の記憶を手繰りよせる(《幻覚油》)。
建設されたばかりの「客家文学花園」では、今後は客家の文学者の作品をテーマにした展示などが行われるということだが、室内展示では、このロマンチック三台線に残る「戦争の記憶」がテーマとなっている。「乙未戦争」とは、日本では「台湾平定」とも呼ばれる。日清講和条約により台湾を接収した日本軍の上陸に際し、台湾の官僚や商人らは「台湾民主国」という独立国の建国を宣言した。それに対し日本軍が無差別殺戮をしながら進軍したことで台湾各地では激しい郷土防衛戦が起こり、これを日本軍が武力鎮圧した。この日本軍の進軍ルートがちょうど現在の台三線と重なるのである。ホーロー人や原住民族などエスニック集団を問わずに「台湾民主国軍」として日本軍に抵抗したなかでも、とりわけ多く義勇軍に参加したのが客家の人々であった。
ここで、フロッタージュの手法で知られる日本のアーティスト、岡部昌生は、広島の旧国鉄宇品駅プラットホームの被爆縁石のフロッタージュを展示。海軍大将で初代台湾総督となった樺山資紀は、「台湾平定」の総指揮官として広島の宇品港から船に乗り、台湾へと上陸した。紙に浮き上がった過去の戦争の名残を触媒として「加害」と「被害」が重く響きあう。また、岡部はこれもロマンチック台三線の終点にあたる台中東勢にある鯉魚伯公廟において、住民100人とともに、廟の中心にある石で築かれた堤防のフロッタージュイベントを行っている。伯公信仰、そして石や木を神様として祀る自然信仰は、客家精神のなかの重要な柱のひとつでもある。
ウクライナ、キーウ州ブロヴァリ市出身のアーティスト、ジャンナ・カディロワは、現在進行形の戦争を生きる人々の息遣いをここ台三線に連れてきた。テーブルの上に、アーティストが毎日食べていた丸いパン(ウクライナ語でパリャヌィツャという)と見まごうばかりの丸い石が並んでいる。これは2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が勃発したあと、戦火を逃れウクライナ西部の山間部の村に避難する途中に、河川沿いでアーティスト自身が拾った石を使って制作された。「パリャヌィツャ」という言葉はウクライナ語が母語でないものには発音が難しいため、敵のスパイを判別する言葉としても使われるという。また、平和の暮らしのなかで「パリャヌィツャ」は訪れた客人に歓迎の気持ちを表すものとして提供されるが、食べることのできない「石」であることに、「歓迎しない客=侵略者」への気持ちが込められている。この作品の石を拾った河川沿いの風景は、この展示が行われる浅山の風景とよく似ているとアーティストは言う。130年近く前、外来者によって流浪を余儀なくされたこの地域の住人らと現在のウクライナの人々、戦火に翻弄される庶民の思いが重なる。
施設の野外では、台三線を取り巻く大地の生態系と環境課題を示す大型の彫刻作品を観ることができる。リャオ・ジェンヅォン(廖建忠)は、破線で形づくられた巨大なタイワンヤマネコ(石虎)のオブジェを制作した。タイワンヤマネコは、台湾のみに生息する絶滅危惧種である。先史・民俗芸術や文化人類学からインスピレーションを得て制作する久保寛子の《泥足》は、台湾の農民らが一般的に使用する緑色のネットを用い、この公館浅山という地域において農業で生活を切り拓いてきた古今すべての人々への敬意を、大地とつながる巨大な裸足としてあらわした。
じつは、台湾で「客家の嫁」といえば、こっそりとこんなことを聞かれる。「ねえ、客家にお嫁さんに入ると大変でしょう、大丈夫?」というのがそれだ。客家のお姑さんは大変な節約家であり、伝統的なしきたりを大事にするので、お嫁さんが苦労するという偏見があるためだ。しかし、こういうステレオタイプが生まれたのにも、こんな事情がある。
17世紀から中国の福建あたりから台湾に移民した漢人であるホーロー(閩南人[びんなんじん]/台湾で一番多いエスニック集団)の人々は、まず海に近い平地を開墾した。もともと台湾の平地に住んでいた台湾原住民族(台湾における先住民の正式名称)と争いつつ、開拓地を広げて集落をつくった。そのあと遅れて台湾へと移民してきたのが客家である。すでにホーロー人たちが開拓した肥沃な平地と、山間部に暮らす原住民族とのあいだの丘陵地を開拓した客家の人々は、かつて戦乱を避けながら何代にもわたって流浪し住処を求めてきたこともあり、痩せた傾斜地で暮らす知恵や術(すべ)、強靭な精神が備わっている。
しかしまた、そこには各エスニック集団同士の闘い(台湾ではとくにこれを「械闘(かいとう)」と呼ぶ)がある。客家の人々もまた、もともとの土地に住んでいた原住民族(サイシャット族、タイヤル族)と土地や水利をめぐって争い、その土地を奪うこともあったろう。もともと台三線とは、高地に住む原住民族と漢人らとの生活領域のあいだに設けられた境界(土牛界線/隘勇線)でもある。これら、地域に眠る傷をアートで縫い合わせ、多様な集団の融合と和解を目指し未来について考えることも、この芸術祭のテーマ「花啦嗶啵(ファラビボ)」の目指すところだ。
苗栗県南庄
南埔小学校は、日本統治下で1918年に設立された南埔公学校(当時は、日本籍子弟は「小学校」、台湾籍子弟は「公学校」に入学するのが一般的だった)を前身とする。この南埔公学校の校長が住んだ日式の木造宿舎では、音楽クリエイターの張幼欣が、日本畳の間と碁石を利用し、この南埔の地域に暮らすタイヤル族や客家の文化要素の対話を試みた空間に、サウンドスケープ・インスタレーションで3つの集落の子供たちが母語や「自分の家族やルーツ」について語るのびやかな声を響かせた。
芸術祭「ロマンチック台三線」では、アートとともに、デザインの分野でも地域の人々と共同で様々な取り組みを行った。なかでも白眉は竹東の「暁江亭 &
Laundry
Pool」である。倹約を旨とする客家の人々は、伝統的に用水路や河川の水を利用して洗濯をしてきた。丘陵地という地形のために清潔な自然用水が利用できることもその理由であろう。いまも客家集落の主に高齢者の暮らしに根付くこうした慣習は、かつての交通用具だったトロッコ台車鉄道の駅であり、地域の守り神「伯公」が祀られている「暁江亭」の橋の下にいまも現役の洗濯場として残る。廟や洗濯場、そして駅は昔から地域の重要な交流拠点である。コミュニティの文化的コンテクストを軸に現代的な設計を進めるデザインチーム「無氏製作」のキュレーションのもと、デザインプロダクション「同心円製作」が洗濯場の現代的な整備をすすめ、地域雑誌『逐歩東行 Our
Chudong』を発行する地元の竹東中学校の教諭と生徒らが、洗濯場を使用する地元の高齢の女性たちとともにフィールドリサーチをした。現行の使用法や歴史を丹念に聞き取ったうえで、これからの洗濯場や「暁江亭」の在り方を一緒に探った展示はポップに再構成され大変見ごたえがある。
先ほど、筆者が「客家のお嫁さんって大変でしょう」と言われる話をした。確かに結婚してもし義母に「はい、あそこで洗濯してきてね」と言われたら、大変なことだとこの洗濯場を見て思ったし、昔はそうしたことも良くあったのかもしれない。しかし、当たり前ではあるがいまはこうした洗濯場は大変貴重なもので、これから先、失われていく景色であることは間違いない。使用者の家には現代的な洗濯機もあるという。それではなぜここに来てわざわざ洗っているかといえば、それが日々のコミュニケーションの一環だったり、そうして洗ったほうがきれいになるし、匂いもいいという確固とした理由があるからだ。展示を見て話しを聞きながら思ったのは、一般的に世間に流通しているステレオタイプやイメージとは、歴史やそこに暮らす人々の事情、思いや本来的な文化とはいささか剥離していることだ。この芸術祭は、台湾やそのなかにあるエスニックグループについて、事実にもとづく理解をしていくための、多様な方法のひとつでもあるのだ。
さて、そんな地域の等身大に出会える芸術祭のもうひとつの楽しみは、飲食店とデザインチームのコラボレーションだ。漬物や瓶詰めといった発酵食などの知恵が積み重ねられてきた客家の暮らしの要素を現代的にアレンジしたスイーツや食事が各所で味わえる。広域の芸術祭のため、各所から芸術祭参観用のシャトルバスが出ている。またテーマに応じたツアーも提案している。
2023年の8月、もし台湾を訪れる予定があれば、ここで繰り広げられる「花啦嗶啵(ファラビボ)」な世界に足を踏み入れてみてはいかがだろうか?