【試し読み】福尾匠による新連載「言葉と物」第一回「郵便的、置き配的」
7月号よりスタートした福尾匠さんによる連載「言葉と物」。
批評・言論の現在をめぐって、「言葉」と「物」の両面から考える本連載。
第一回では柄谷行人『探究』と東浩紀『ゆるく考える』という文芸誌に連載された二つの書物をめぐって展開します。
※「群像」7月号の「言葉と物」の初回の一部を再編集のうえ、お届けいたします。
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批評とは何か。なるべくスペースを広く取っておくために、批評は〈コミュニケーションの条件、言葉が伝わることの条件を思考し、実験すること〉だと定義しておこう。たとえば柄谷行人はそれを「交通空間」として、東浩紀は「郵便空間」として概念化した。異質な共同体が出会う交通と、遺失や遅配に悩まされる郵便。そして彼らはたんにそれを理論として提唱するだけでなく、その実践性を自分で証明するような実験に取り組んできた。
思考と実験が踵を接しているのは、批評は普遍の拒否から出発するからだ。それは柄谷が普遍と特殊の対から逃れる「単独性」において初めて共同体の外にいる〈他者〉との出会いが可能になると述べたことにもっともはっきりとあらわれている。だからこそコミュニケーションの条件はたんに論じるだけでなく、作り出さなければならない。その意味で、たとえばアカデミックな哲学と対比して「アクチュアリティ」によって批評を定義するのは因果関係が逆転していると言えるだろう。批評がアクチュアルになるとしたらそれは普遍の拒否の帰結であり、批評が実験を含意しているからこそのことだ。
そして柄谷にとってのウィトゲンシュタイン、東にとってのデリダのような、コミュニティの事実上の安定性をコミュニケーションの理念的な普遍性にすり替えることを批判した哲学者たちが特権的であるのも、こうした観点からすれば当然のことだ。哲学と批評を並置してあっちにはこれがあるがこっちにはこれがないというリストを作成して納得することほど、哲学も批評も裏切るようなことはない。
あらためて、批評とは何か。ここまでの話をパラフレーズすればそれは〈もっとも自由な散文〉だと定義できる。小説は、エッセイはどうだろうか。小説は小説だと思ってもらうことを要求するし、エッセイもそうだ。批評はそうではない。なぜならそれが「何」かというメタカテゴリーの外で機能しなければ批評は普遍の拒否をなしえないだろうからだ。だから僕もここであたうかぎり自由に書くことにする。