なぜ宗教は「分かち合う」という営みを肯定的に意味づけするのか?
人類は分配することによって家族や社会を形成してきた、人類は分配という行為を営むことによって人類となってきた、という側面があるようです。以下に挙げているのは、医師で探検家の関野吉晴氏と、霊長類学者の山極寿一氏との対談です(『人類は何を失いつつあるのか』朝日文庫)。
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関野:霊長類ではチンパンジーも肉食をしますよね。狩りをして、アカコロブスなどの弱いサルやムササビなどを捕って食べるといいますが、その肉はその場で食べる。そしてそこへメスや子どもがやってきてしつこくねだるときだけ仕方なく与えるそうですね。
では、初期の人類はどうだったかというと、人類の祖先は、その場では食べずに、わざわざ仲間がいる場所に持ち帰ってから分け合って食べた。その場で食べているチンパンジーたちの目には、「あいつら、バカじゃないか。ここで食べればここにいる人間だけで独り占めできるのに、なんでわざわざほかの仲間のところにまで持っていくんだろう」と不思議な光景に映ったんじゃないでしょうか(笑)。
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これに対して山極寿一は、人類はエサが豊富にある森林から草原へと移り住んだ、食料が限られている場所で強い個体が独り占めしていたら種として存続できない、だから分け合って食べ始めたのだろう、と語っています。さらに山極は「相手の嬉しい顔を見たいという感情や、強い者が弱い者に施す博愛、あるいは名誉欲なども、もっとあとになって出てきた感情だと思います」とも述べています。
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山極:当初、人類はいきなり草原で暮らし始めたわけではなく、長いこと森林と草原を行ったり来たりしていたはずです。やがて森林ではゴリラやチンパンジーの祖先の力が増して人類の居場所がなくなり、草原で暮らさざるをえなくなった。草原は外敵の肉食獣が多いから危険が多い。だから限られた安全な場所に多くの人が集まるようになる。そこまで食物を運んで分けなくてはならなくなった。
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弱い集団が「分配」を生み出したということですね。これは宗教心と結びつけて考える際にも手がかりになりそうです。
経験的に「私たちには、分かち合うこと自体に喜びを感じるメカニズムがある」ような感覚を持っているのですが、それは後付けじゃないかとの指摘です。