「没後50年 鏑木清方展」が開幕。110点超の日本画から見た生活の手触り
鏑木清方展」が、東京国立近代美術館で開幕した。
10代の頃から挿絵画家として活躍し、後に60年以上の年月をかけて美人画などを描き続けた清方。本展では、挿絵の展示はされず、初公開作品を含む110点超の日本画のみで展示を構成している。
東京展を経て本展は、5月27日~7月10日の会期で京都国立近代美術館で巡回展示され、異なる展示構成を予定している。東京展は「生活をえがく」「物語をえがく」「小さくえがく」の3章で構成されており、本レポートでは東京展の見どころを紹介したい。
清方は、1878年に戯作家・新聞社主宰として知られる条野採菊の長男に生まれた。13歳のときに歌川国芳の孫弟子に当たる浮世絵師・日本画家の水野年方に入門し、25歳頃にはすでに挿絵画家のトップクラスに登り詰めた。
29歳頃には、日本画家を目指して文展出品をはじめ、「浮世絵派系」美人画家として活躍。30代後半から40代半ばまでは、民衆生活を反映した「社会画」や「風俗画」、小さくて複製可能であり手元で楽しめる「卓上芸術」を提唱しはじめ、93歳死歿まで数多くの作品を生み出した。
本展の担当学芸員・鶴見香織(東京国立近代美術館
主任研究員)は記者会見で、「浮世絵や美人画家として活躍したが、それ以外の作風や主題も積極的に描いていたのだということを今回の展覧会では目に見えるかたちでご紹介するのが、大きな目的のひとつだった」と語っている。
1935年の『鏑木清方文集 一
制作余談』では、清方の次のような言葉が残されている。「需(もと)められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かるる」。鶴見は、「これまでの清方の展覧会では、そうした側面がなおざりにされてきたような気もするので、今回の出品作品のラインナップでは生活を描いた作品を一生懸命集めてきた」と説明している。
本展でもっとも注目すべき作品のひとつが、本展開催のきっかけとなった、2019年に東京国立近代美術館に収蔵された《築地明石町》(1927)だろう。1975年以来44年ものあいだに所在不明だった同作は美人画の金字塔と言われており、清方が「明治20年代から30年代の人々の生活」というテーマに行き着いた、画業の後半のスタートラインに位置する作品でもあるという。
同作とともに、東京国立近代美術館が19年に同時に収蔵した、同じく所在不明だった《新富町》《浜町河岸》(ともに1930)もあわせて展示。この三部作は、東京と京都の両会場とも会期中展示替えなしで見ることができる。
もうひとつのハイライトは、30年ぶりに公開された《ためさるゝ日》(1918)の左幅だ。《ためさるゝ日》は、江戸時代の長崎での踏絵を題材にしたもので、すでに年中行事となった踏絵に着飾ってのぞむ遊女を描いた作品。左幅が最後に公開されたのは、1992年に行われた「没後20年記念鏑木清方展」であり、右幅と並んでの公開は40年ぶりとなっている。左幅は4月17日まで展示されており、右幅の展示期間は4月3日までとなっている。
生活を描いた作品のなかでは、《鰯》(1937)もその恰好の作例。鰯を売りに来た少年を若女房が呼び止める画面が描かれた同作では、画面中央のすだれ越しがかかった台所に駒込富士神社の麦わら蛇や、左側に関西発祥の姫のり看板、芝居番付、有平糖やういろうなどのお菓子が入念に描き込まれており、清方の真骨頂とも言える作品だ。
本展では、10点の作品が清方の回顧展では初公開。なかでも、清方が毎回力作を出品したグループ展・七絃会展の出品作《雪紛々》(1937)や、「新浮世絵」や「社会画」をうたって作域を広げようとしていた作例である《泉》(1922)などがラインナップされている。
また、清方は1918年~25年の作品には約500点に3段階の自己採点をつけており、本展ではそのうち23点が出品。3つ星がついた「会心の作」のなかでは、前述の《ためさるゝ日》に加え、《遊女》(1918)と《春の夜のうらみ》(1922)も見ることができる。
会場の最後では、清方の次のような言葉が紹介されている。「願はくば日常生活に美術の光がさしこんで暗い生活をも明るくし、息つまるやうな生活に換気窓ともなり、人の心に柔らぎ寛ろぎを与へる親しい友となり得たい」(『鏑木清方文集
七 画壇時事』より)。
鶴見は、「(清方は)ひと昔前の生活の手触りを描いた。それを市井の人々と共有することを喜びとした作家だった」と話す。美人画によって広く知られ、人生の機微や生活の喜び、生きた社会にも目を向けた清方の芸術をぜひ会場で目撃してほしい。