「売れない青春時代」はみんな必死……あの「超有名哲学者」の「なかなかの黒歴史」
1749年10月のある日、ルソーはヴァンセンヌ城の牢獄に収監されていた親友の哲学者ドニ・ディドロ(1713-84年)に面会して元気づけようと、徒歩でヴァンセンヌにむかっていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を読みながら。
するとディジョン・アカデミーの懸賞論文の課題が目にはいり、「霊感」にうたれる。まるで天啓のようなその「霊感」につきうごかされて、『学問芸術論』となる論文を書きあげた。論文は一等入選し、大成功をおさめ、ルソーは彗星のごとくあらわれたスターになる──いわば本人の意に反して。
……これがルソー自身による説明である。なんともわかりやすい説明だ。考えぬかれた物語ともいえるだろう。
だがじっさいには、当然ながら、この成功までにルソーは無数の試行錯誤をくりかえしている。
パリへむけて発つまでの時期にすでに彼はいくつもの詩を書いていた。先にあげた『メルキュール・ド・フランス』誌のために準備した天体論もある。いわゆる年代誌のようなものも構想し、序文を書いている。刊行目的ではないが、家庭教師をしていた時期には教育論まで書いていた。
のこされたこの時期の草稿から判断して、ルソーがもっとも力を注いだのはやはり音楽だ。
ルソーは演劇作品にくわえて、すくなくともふたつの「悲劇」、現代でいうところの「オペラ」を書いている。出来はともかく、そうとうなエネルギーを要したであろうことはうたがいようがない。そしてシャンベリからパリへむけて出発したさい、彼が成功をおさめ、財をなすことまちがいなし、と考えたのが、音符を数字で表記するという音楽の「新記号案」だった。
しかし、自分の研究成果から、いったいどのようにして価値をひきだせばよいのか。
当時のパリはすでにヨーロッパの文化の中心地だった。ルソーと同じように富と名声をもとめておおくの知識人があつまっている。そこで必要となるのが人脈だ。しばしば「社交性」はフランス文化の特質といわれるが、成功のために不可欠な信用、信頼といったものの基盤となるのが人と人のつながり、ネットワークなのだ。
当時、学問や芸術の世界をめざす人間にとって重要な入口になりはじめていたのが複数のアカデミーである。現在の「学会」とはずいぶんことなり、知識人や名士からなる領域横断的な学術的つどい、といったものを思いうかべていただければよいだろう。
ルソーは知人をたよって、1742年、ついに科学アカデミーで音楽の「新記号案」を朗読する機会を手にいれた。だが、審査員からは期待していたような称賛をえられず、なんとか出版にこぎつけた原稿もほとんど評判にならなかった。
つまり、夢は、はかなくついえた。
だが、この失敗をふくむ、パリに到着してから『学問芸術論』刊行前後までの時期は、ルソーの思想形成を考えるうえできわめて重要なのである。とくに、つぎの二点についてはどうしてもふれておかなければならない。ひとつは、「知識人界」、つまり当時の知識人たちをとりまく状況。もうひとつは、ルソーにとっての音楽の決定的な重要性だ。