『マイハズバンド』を出版した潮田登久子の40年間変わらない「写真」との関係
―まず、写真集『マイハズバンド』を出版することになった経緯から教えて下さい。お引越しのときに見つけられたんですよね。
当時、借りていた部屋は明治の末に建てられた西洋館(旧尾崎行雄邸)でした。島尾の写真集『まほちゃん』(オシリス、2007年)が撮影されたのと同じ場所です。1979年から7年間暮らし、近くの実家に移った後もそこを仕事場兼物置代わりにしていました。2020年3月に、そこを引き払うことになって片付けていたら、40年前のネガやプリントなどが出てきたんです。すっかり忘れてしまっていたのですが、やがて撮ったときのことを思い出した写真もありました。
―見つけたときに、「これは作品として発表しよう」と思ったのですか?
これらの写真は、写真集や展示をする作品として撮ったわけではありませんでした。ただ目の前の生活を撮っていたっていう感じなんですね。同じ時期に島尾が、やがて『まほちゃん』にまとめることになるのですが、私も同じ家の中の景色を撮っていました。でもいま振り返っても、彼の撮り方とは随分違うと思っていました。もしかしてこの写真で自分の写真集や写真展ができるのではないか、できたらいいなと思ったんです。
―たしかに、島尾さんの『まほちゃん』とは違った印象を受けます。撮影したときには、それらとは違うものを作ろうと考えて撮っていたのでしょうか。
私は島尾の写真を「こたつ写真」と呼んでいるんですけれど、島尾はこたつに入りながら四方八方撮るような撮影の仕方をしていました。私は街に出てスナップショットしたり、取材に行って写真を撮るスタイルだったものですから。でもこの人は、どこも行かなくて。当時はほとんど仕事もせずフリーターだったので、マホや、うちに遊びに来る子供たちや私の仕草なんかを部屋の中で撮っているんですね。私は、「え、こんなんで写真になるのかな?」とか、「私にはできない」と思っていました。でも、カメラはあるので、ひとりでいるときに撮ったりしていました。島尾は子供が生まれたことがとても嬉しかったらしく、私の撮った写真の中にもその姿が写っています。いまになって、40年前の写真を見返すと、そういう彼の喜びがひしひしと胸にせまってきます。
―写真を見ていると、島尾さんが写っていない写真が印象的でもあって、あまり家にいらっしゃらなかったのかなと推測してしまったのですが。
出かけると翌日まで帰ってこないというのはいまでも同じです。携帯は持っていないので帰るまで連絡がつきません。送り出した瞬間に、今日は帰って来ないなってわかります。そうすると、夜中に帰ってくるか、翌日か、翌々日なのか、帰ってきたら「おかえりなさい、楽しかった?」っていえば彼はご機嫌です。
―潮田さんがひとりで家にいる間に撮られている写真には、帯にあるように文字通り「静寂」という言葉がぴったりです。「静かさ」と「寂しさ」のようなものがあるのかなと想像したのですが。
寂しいとはあんまり思わなかったですね。写真を撮るところを見られるのがあんまり好きではなかったからかもしれません。ちょっと解放された気分になっていました。
―写真集では、まほさんの写真も多いですが、『マイハズバンド』というタイトルはどのように決められたのですか?
懐かしい時代の「懐かしい写真集」にはしたくないということだけは、須山悠里さん(デザイナー)やみなさんに最初にお伝えしたと思います。自分でそういっておきながら、情緒的なタイトルが浮かんできちゃうんですよね。もう少しストレートな言葉がふさわしい、と思ったところで、「マイハズバンド」がいいかなと。みなさんが一致して「よし」っておっしゃってくださったのが、すごく嬉しかった。
―今回は2冊セットの写真集になっていますが、この写真のセレクトや造本についてはどのように感じていますか。
いままで私の写真集のデザインや構成はだいたい島尾がやってきたんです。経済的なこともあって。でも喧々諤々しながら写真集を作るのはすごく疲れるんですよね。でもPGIの高橋さんに相談したら、心当たりがいくつかあるので営業してみます、とおっしゃってくれて。それで版元はtorch press、デザインはアートディレクターの須山さんにお願いすることになりました。たまたま、私たちが以前からお世話になっている大伸社(印刷所)を網野さん(torch press)と須山さんが提案なさった。ここまでラッキーな偶然が重なれば、うまく行かないはずがない。これはすべてお任せしようと思いました。一番の難題は島尾の処遇です。今回は、「マイハズバンド」だから、まな板の上の鯉になってもらいたいとお願いしました(笑)。こちらが料理するから、色々あるでしょうけどよろしくねっていったら、「いいよ」っていってくれました。