「流れにあらがう人」に光 関西発ドキュメンタリー「映像」 72本制作したディレクターの思い
津村さんは1987年入社。社会部記者やラジオ番組の制作者などを経て2001年、「映像」シリーズのディレクターとなり、計72本のドキュメンタリーを制作した。
42年続く同シリーズは毎月最終日曜日の深夜0時50分~1時50分に放送。ディレクターは津村さんを含めて4人おり、3~4カ月に1本を担当する。「いつもいい『ネタ』があるわけではないが、その都度、自分のセンサーに引っかかる題材を探してきた」という。
優秀番組に与えられるギャラクシー賞に選ばれたのが、原子力の安全について研究している科学者たちを追った「なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所・“異端”の研究者たち~」(08年10月)だった。
08年の北海道洞爺湖サミットで首脳宣言に、原発をクリーンエネルギーとして推進するという文言が盛り込まれたことに疑問を抱き、愛媛・伊方原発差し止め訴訟に証人として関わった京大の研究者による原発の危険性の訴えに触れたのがきっかけだった。
それらの取材も下敷きとなり、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故後には、先に原発事故があったチェルノブイリも取材し、「その日のあとで~フクシマとチェルノブイリの今~」(11年6月)を制作した。
このほか、ベトナム戦争の戦場に送られる前に日本で脱走をした米兵のその後を追った「わが家にやってきた脱走兵~ベトナム反戦運動・47年目の真実~」(15年8月、文化庁芸術祭優秀賞)や、入院患者の人工呼吸器を外して死亡させたとして服役した滋賀県の元看護助手の、再審までの道のりを追った「私は殺していない~呼吸器外し事件の真相~」(17年11月、坂田記念ジャーナリズム賞)なども手がけた。
「世間の大きな流れにあらがい、歯を食いしばって生きている人を撮ってきた」と津村さん。そうした姿勢を生んだのは社会部時代、阪神・淡路大震災の現場での取材経験だという。
神戸市長田区に入った津村さんは火事で焼け出された被災者にいつもの通りマイクを向けたところ、回し蹴りをされて目が覚めたという。「取材する側の理屈しかなかった。される側の立場に思いが至らなかった」と反省。以降、「自分がされて嫌なことはしない」という基本を肝に銘じてきた。
昨年から京都大学が戦前の帝大時代に研究のため沖縄の埋葬地から持ち帰った遺骨の返還訴訟を追ってきた。その取材を基に今年7月には同様に北海道から持ち去られたアイヌの遺骨の問題に取り組んだ。
津村さん最後の作品は、鹿児島県奄美諸島での同様の例を示して問題提起。11月27日に放送された。
テレビ離れが進む一方、誰もが手軽に動画を撮れるこの時代、発表されるドキュメンタリーの数は増えている。しかし質は玉石混こうだ。そんな中「一本一本、手間暇かけ、40年以上作り続けてきた『映像』の作品はひとつの知的財産になっている」と津村さん。政治や経済の論理が優先されがちの東京ではなく、「関西から全国、世界に向けて発信している。それが強み。自分の力にもなっている」と自負する。
津村さんが手がけたドキュメンタリーはMBSの有料動画配信サイト「444」とアマゾン・プライムビデオの「動画イズムセレクト」で視聴できる。