「日本近代文学史上もっとも問題の女」美禰子は本当に謎めいているのか?
で、ようやく問題の女性、美禰子である。
両親を早くに亡くした美禰子は、兄の恭助と二人暮らし。この兄が広田先生や野々宮と友人だったことから、彼女はサロンの一角に加わっている。英語を解す才媛で、(三四郎的には)美貌の持ち主である。
以下、三四郎と美禰子の関係をざっと見ておこう。
1. 衝撃の出会い
彼女を三四郎がはじめて目にしたのは、上京してまもなくの暑い夏の日であった。
大学のキャンパスの、池(現在「三四郎池」と呼ばれている池である)のほとりで、丘の上にいる看護婦らしき女と二人連れの若い女を彼は見るのだ。
彼女は夕陽を避けるように団扇をかざしていた。やがて手にした白い花の匂いを嗅ぎながら二人はこちらに向かって歩いてきた。そして三四郎の前を通り過ぎるとき、〈若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った〉。
これ見よがしに花を落として去った女。こんなことをされたら意識するなというほうが無理な話だ。〈矛盾だ〉と彼はつぶやく。衝撃の出会いだったといえるだろう。
三四郎が彼女の名前を知るのは、広田先生の引っ越しの手伝いに行った日である。同じく手伝いに来た美禰子に名刺をもらった三四郎。池の女だとわかった彼は〈あなたにはお目にかかりましたな〉といってみるが、美禰子は反応しない。
それでも一緒に掃除をするうち、二人はだいぶ親しくなる。
2. 急接近
そして二人が急接近する日が訪れる。
サロンのメンバーで団子坂の菊人形を見に出かけた日のことである。美禰子は野々宮と言い争いをするなど最初から不機嫌だったが、ひとりで帰りかけた美禰子を三四郎が追うと彼女はいった。〈もう出ましょう〉〈私心持ちが悪くって……〉。かくて二人は他のメンバー(広田先生、野々宮、よし子)と別行動に及ぶのだ。集団を二人で抜け出す。恋愛関係に進む際の常道である。
三四郎は野暮天なので、広田先生や野々宮はさぞ自分たちを探しただろうといいだすが、美禰子は冷淡にいった。〈なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの〉
そして突如、意味不明なことを口にするのだ。〈迷子の英訳を知っていらしって〉〈迷える子(ストレイ シープ)――わかって? 〉。さらに、もっと意味深な一言の追い打ち。
〈私そんなに生意気に見えますか〉
美禰子はどこまでもミステリアスで、田舎の秀才はどう対処してよいのかわからない。三四郎が恋に落ちた瞬間があったとしたら、たぶんこの時だろう。
実際、この日を境に、美禰子は思わせぶりな行動をとりはじめる。ストレイシープを意味するらしい二頭の羊の絵を添えた葉書を送ってきたり、〈あなたは未だこの間の絵はがきの返事を下さらないのね〉と問うてみたり、招待券が二枚あるから絵画展に行こうと誘い、会場で出くわした野々宮の前で〈似合うでしょう〉といってみたり。
いったい美禰子は自分を好きなのか否か。もはや三四郎の頭は美禰子でいっぱいだ。
3. 破局に至る道
そんな折り、三四郎には美禰子に会う口実ができる。口実を作ってやったのは与次郎だった。三四郎が貸してやった金を、与次郎は競馬ですってしまったのである。その金を美禰子が用立ててくれるという。〈よく考えてみろ、おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう〉
与次郎は見抜いていた。〈君、あの女を愛しているんだろう〉〈あの女は君にほれているのか〉。三四郎は〈よくわからない〉としか答えられない。
万事において煮え切らなかった三四郎が、ついに行動を起こすのは、小説も終盤にさしかかった頃である。金を返すという名目で、三四郎は美禰子に会いに行くのだ。
はたして美禰子は絵のモデルとして、画家の原口のアトリエにいた。
帰り道、なぜここに来たのかと問う美禰子。
〈三四郎はこの瞬間を捕えた。/「あなたに会いに行ったんです」/三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである〉。美禰子は動じない。三四郎はさらに追い打ちをかける。〈ただ、あなたに会いたいから行ったのです〉
「好きだ」といったわけではないものの、三四郎、これでも一世一代の告白である。
しかし、美禰子はかすかなため息をもらしただけだった。彼の告白はスルーされ、この後、三四郎は美禰子から婚約者らしき人物を紹介される。そして結局、美禰子は彼らが知らぬ相手と結婚し、広田サロンを去っていくのだ。〈我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり〉という謎めいた言葉を残して。