定年哲学教授が最後のゼミでカント『純粋理性批判』を読んでみた【1】 木がみどりに見えるのは木がみどりだからだ、は本当か?
哲学史上最重要書であり、超難解であることでもよく知られるカント『純粋理性批判』。そのロングセラー入門書の著者であり、カント哲学に長年取り組み続けてきたことで知られる黒崎教授でしたが、近年は思うところあり、大学の講義ではカントを正面から取り上げてこなかったそうです。そんな先生も、ついに定年を迎えるこことなり…… SNSとAIの時代に生まれ育ったいまどきの学生が集う「最後のゼミ」で、カントの精髄を教えることはできるのか?
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定年哲学教授? えっと? あっと、それは私のことか、と思うほど、定年ということに実感がない。哲学をやるのだ、と決心したのは高校二年のときだから、それからもう約50年も経っている。<過去に見返す50年>はあっという間、という感覚だが、18歳のときに<未来に見通す50年>は、それこそ永遠、無限と感じられるほど長かった。それが定年を迎えた今、なのである。
高校二年生のときに、通常の勉強はそっちのけ(自我の目覚め、とか反抗期とかいう時期である)で、私はある一つの問いにとらわれ続けていた。それは、簡単に言うと「1+1=2というのは、我々の頭の中にあるのか、それとも、世界が存在するための原理なのか」。こう書くとものすごく崇高な問いに若いときから携わっていた、と自慢しているようにみえるが。当時はもうすこし漠然としていて「1+1=2がちょっとでも世界とズレていたら、それを元に膨大な計算をして飛ばしたアポロ宇宙船がちゃんと月に到着しないのではないか」というもの。
このような私のトンチンカンと思われた問いが、実はカントが『純粋理性批判』で考えようとしていたこと(存在と知、という哲学的基本テーマ)に直結していた、と高校の倫理社会の先生に示唆されてから、結局、私の人生は哲学をすることになってしまったわけである。
東京女子大学人文学科哲学専攻「西洋近代哲学演習AI&II」。30年以上続けてきた演習で今年が私にとって最終年のゼミだ。2023年3月で大学を定年退職したが、一年間は特任教授となったので、もう一年授業を持つことになったのである。このところしばらくは、「偶然性の問題」というのがこのゼミのテーマだったが、最後はまた初心に返ってカントを読み直そうと思った。通常ゼミの学生は10人程度が望ましいのだが、なんと今回は希望者が55名も集まってしまった(ちょっと喜んで自慢しちゃってる? ! )これじゃゼミじゃない、講義になってしまう。