千田嘉博のお城探偵 武士の面目のおもかげ 島根県・津和野城
直盛は山城とともに城下の整備も進め、今日に続く津和野の基礎を築いた名君だった。しかし直盛は、16年間の治世途中で自害し(殺害されたとも)、坂崎家もわずか1代で改易となった悲劇の藩主でもある。その理由は一説によると、1615(慶長20)年に起きた大坂夏の陣にさかのぼる。直盛は燃えさかる大坂城から徳川家康の孫娘・千姫を救出した。家康は救出した者に千姫を嫁がせると約束していたとも、千姫を救出した直盛に、千姫の新たな嫁ぎ先を調整するよう依頼していたともいう。
しかし千姫は、直盛が知らぬ間にのちの姫路城主・本多忠政の子、忠刻に嫁ぐことになって、直盛の面目はまる潰れになった。これに憤慨した直盛は、本多家に嫁ぐ千姫を江戸で奪取しようとした。ただしこの計画は事前に露見して、江戸城下の直盛の屋敷は幕府軍に包囲されて失敗した。
真相は謎に包まれているが、直盛が何の理由もなく大御所の孫娘であり、将軍秀忠の娘を奪おうとしたとは思えない。そもそも強奪に成功したとしても、めでたく収まるはずがない。その決断は理屈を超えていた。直盛が大切にした武士の面目を失わせる大きな過誤が、江戸幕府にあったのだろう。
そうした思いを胸に津和野城に登ると、峻険(しゅんけん)な山の上に石垣を連ねたこの城は、建物を失ってなお強くて隙がない。中心部への出入り口は山の比高差を利用した豪快な枡形で、敵がたとえ枡形内に進入しても、石垣の上の多方向から見下ろして反撃できるようにしていた。さらに不思議なことに、津和野城の天守は最上位の本丸「三十間台(さんじゅっけんだい)」にはない。天守は本丸から一段下がった場所の、中心部に出入りする複数の枡形を見下ろす防衛の要の位置にあったという。
本丸に天守を置かない津和野城の設計は特異である。これは直盛が天守のシンボル性よりも、実戦で天守がいかに機能するかを重視したのを示している。見栄えのよい象徴的な城ではなく、徹底して強い城を築く選択をした直盛の一途さ、質実剛健さが際立つ。私にはこの直盛のまじめさが、千姫奪取計画の悲劇につながったように思える。
幕府に刃向かった直盛を弔うのは難しく、13回忌に際して津和野・永明寺(ようめいじ)に石塔が立てられた。永明寺は坂崎家の後に津和野藩主になった亀井家の菩提寺で、近接した乙雄山(おとおやま)に亀井家墓所がある。そして境内の墓地には「石見(いわみ)人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺書に記した森鷗外の墓もある。その墓石はただ「森林太郎墓」と刻む。永明寺は城下から少し離れているが、津和野城に登城したらぜひ併せて訪ねてほしい。(城郭考古学者)
■津和野城 1295(永仁3)年、地頭職(じとうしき)にあった吉見頼行が築城を始め、2代頼正の代で完成した山城。江戸初期、坂崎直盛によって整備され、「千姫事件」によって坂崎家が断絶した後、亀井家が藩主を歴任し明治維新を迎えている。石垣が残る城跡は国指定史跡であり、日本100名城にも選ばれている。徒歩でもアクセスできるが、観光リフトが整備されており、津和野の町が一望できる。