原子力も「クリーン・エネルギー」も変わりはない
ハイデガーの戦後の技術論は基本的に1930年代後半の「主体性」に対する批判的考察を継承しながらも、「技術的開示」の本質構造について、より詳細な分節化を行っている。このことに加えて、戦後の技術論において特筆すべき点は、原子力技術や宇宙開発、遺伝子工学、情報技術などといった技術進歩につねに目配りがなされ、それをそのつど自分の議論に反映していることである。
そもそもハイデガーの1930年代後半の技術論は、エルンスト・ユンガーなどに代表される、第一次世界大戦後に現れた「総力戦」についての言説の影響が大きく、その近代技術の捉え方は圧倒的に戦争やそれによる物資や人びとの動員といったイメージと結びついていた。戦後になると、技術は人類の輝かしい未来を保障するものというイメージが喧伝されるようになったが、ハイデガーはこうした技術観に対抗して、これまで見てきたような「技術への問い」を展開したのである。
1950年代に入ると原子力の平和利用がしきりに唱えられるようになったが、ハイデガーはこうした言説に対して、1957年の講演「根拠律」(『根拠律 ハイデガー全集第一〇巻』所収)で次のように述べている。「原子力エネルギーが平和的に利用されるか、戦争に動員されるか、一方が他方を支えたり、要求したりするかどうかは二次的な問いである」。
ここでは同講演でのハイデガーの議論を紹介することは割愛する(この点についての詳しい議論は、拙著『ハイデガーの超 ‒ 政治』、287頁以下を参照)。しかし本章でこれまで見てきたことを踏まえると、彼のこの問題に対する基本的なスタンスは容易に想像がつくだろう。つまりハイデガーからすると、原子力エネルギーが戦争に利用されるか平和的に利用されるかは本質的な問いではない。なぜなら、どちらにおいても「対象を計算可能な仕方で確保する」という現代技術の本質が貫徹されている点に違いはないからである。
この立場からすると、原子力技術だけが特別に問題視されなければならない理由もないことになる。たとえば「クリーンな」再生可能エネルギーも「自然に向かって、採掘して貯蔵できるようなエネルギーを提供せよと要求する無理強い」のより包括的かつ徹底的な遂行としてそれがある限り、原子力技術と同様、「駆り立て ‒ 組織」であることに変わりはない。しかも原子力技術より無害だという印象を与える分だけ、「駆り立て ‒ 組織」の支配のいっそうの自明化と完全化をもたらしているとさえも言いうるのだ。