天才ピアニストが語る バーンスタイン、小澤征爾との”絆” 世界文化賞・ツィメルマン氏
Q・5歳の頃、父上からピアノを学んだのが音楽との出会いなのですか?
私は母のお腹の中にいたときから音楽と出会っていました。元々音楽家だった父は、生活のこともあり、建設局で機械や建物の設計をし、その分野でも才能を発揮していましたが、やはり一番好きだったのは音楽で、毎日、仕事から帰って、うちで音楽好きの同僚と演奏をしていました。私は朝からずっとハイハイしながら、3時に父親が帰宅し、演奏するのを楽しみに待っていました。
5歳の頃に父からピアノを教えてもらい、自分で曲を書くようにもなり、6歳の時にはポーランドのテレビ局に招かれて、自分の作品を3曲披露したこともあります。私の初めてのコンサートは父とやりました。1962年12月6日に、父が勤めいた工場で、父と二人でクリスマス曲の連弾をしました。
こうして音楽に囲まれて育ったので、初めて友達の家に遊びに行ったときに、その家にピアノがなくて「どうやって生きていくのだ」と思ったぐらいビックリしました。うちでは、ピアノはベッドやテーブルと同じぐらい、生活に欠かせないものだったのです。
Q・1975年のショパン・コンクール優勝時(18歳)の心境を教えてください。優勝後、人気に溺れてしまうピアニストもいますが、何を心がけてキャリアを築いてきましたか?
私はコンクールのために演奏したことはありません。聴衆のために演奏しているだけです。この時は、聴衆のみなさんが、コンクールという枠から解放され、心に響くステキな音楽を聴くことができたら、と思いました。47年前のことですが、そのときも信じられませんでしたし、いまだに信じられません。
優勝後は、大きなキャリアを積もうとはせず、小さくすることばかり考えていました。というのも、突然、色々な人が、私がノーと言えないような協力を頼んできたからです。共産主義の時代に、党のメンバーが、私の本意ではないコンサートに私を引き込もうとしたり、ある時期、国から逃げ出さなければならなかったこともありました。優勝者には、そういう問題も起こるので、私にとっては、コンクールの後、自分を取り戻すことが最大の課題でした。