「これは本物の小説だ」ぼくらが視線という不可視の紐帯で結ばれている、ぼくらは
村上春樹、村上龍、高橋源一郎、村田沙耶香など数多くの作家を輩出してきた群像新人文学賞。一昨年、22歳で本賞を受賞した島口大樹のデビュー作『鳥がぼくらは祈り、』がこのたび文庫化された。群像新人文学賞の選考委員として新しい才能の出現に注目し、本作を強く推した作家の古川日出男氏が、文庫版に寄せた解説をお届けする。
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この『鳥がぼくらは祈り、』は三度読んだ。最後の一度は、この文庫解説をしたためるために読んでいる。すると最初の二度はいつなのかという話になるが、二〇二一年の三月末から四月頭にかけてだ。この『鳥がぼくらは祈り、』は群像新人文学賞の最終候補作に残っていて、自分は選考委員であるのでそれを読んだ。いいなと思った。感動もした。けれども的外れな角度から攻撃を喰らって(というのは、選考会においてもしかしたら他の選考委員から、だ)、要らぬダメージを受けるかもなと懸念した。というわけで再読したのだが、それはむしろ精読だった。まだゲラ刷りのような体裁(かっこう)のこの『鳥がぼくらは祈り、』の応募原稿に、だいぶ付箋を貼ったことを憶えている。書き込みもいっぱいした。が、さすがにその応募原稿は廃棄しているので、記憶に基づいて初読および再読時の印象を再現する。それから他のことを書き、のち、昨日読み終えた“三度め”の印象を記す。
その前にどうして「的外れな角度から攻撃を喰ら」うんじゃないかと心配したのかだが、それはもちろん、文章、文体のせいだ。なんなのだこの句点はなんなのだこの読点は、どうして改行がここに来るのだ? という話が出て、それが拒絶につながったら、なんというか出発点で転んでしまうぞ、と感じた。何の出発点か、をあえて説明すれば議論の出発点である。しかし本当の出発点は、この『鳥がぼくらは祈り、』の本文のその文章、文体にあるのではない。題名にある。つまりこの詩集のようなタイトルはなんなのだ、という話だ。すると詩のように思考するものは詩のようにしたためるだろう、という話になる。この「詩のように思考する」というのは「実用文書のようには思考しない」ということで、わたしたちは普段は日常生活を円滑に進めるマニュアルのように日本語を学んで、事実、社会生活を円滑に進めるために「一億人に通じる日本語」を話そうとするのだけれど、言葉というのは一億人に通じることが必須の条件ではない。たとえば母子がいて、子供はまだ一歳だの二歳だので、何かを話している、子供はもちろん喃語もどきを話しているのだけれど、しかし母親はその“内容”を理解している、だから円滑にコミュニケーションは成る、という状況があったとして、この時、わたしたちは「その母子の日本語」を否定できるか?
できるわけないだろ。