【書評】グラウンドキーパーの“悪戦苦闘”描く 『阪神園芸 甲子園の神整備』(金沢健児 著・毎日新聞出版)
この蔦の絡まる美しいスタジアムは、ドームと人工芝が当たり前のようになっている昨今のプロ野球球団の本拠地のなかで、太陽の下、自然芝の上で競技が行われる、いわば野球の原点を守り続けてきた「頑固な」球場だ。
著者であるチーフグラウンドキーパーの金沢氏は「この本のタイトルには『神』なんて言葉が使われているが、私たちはそんなたいそうな存在ではない。むしろ、球場を整備する、地味な裏方だ」と謙虚な人柄をしのばせる一方、「それでも、グラウンド整備こそがスポーツの試合の質を支えているという側面はあるはずだ」と誇りをもって自らの仕事に取り組んでいる人でもある。
金沢氏と甲子園との付き合いは古い。4歳の時に叔父が高校野球の兵庫県大会に出場したときに母親に連れて行かれた時が最初だという。当時、兵庫県予選の何試合かは甲子園で行われていたようだ。母子家庭の一人っ子だったが、母はやがて甲子園球場の職員として働き始める。当時、球場関係者の家族は「顔パス」で球場に出入りできたらしい。だから著者は空いている席で野球観戦していたそうだ。プロ選手とキャッチボールをしたり、藤田平さんや掛布雅之さんによくかわいがってもらっていたともいう。
そんな環境で育ったものだから、中学では当たり前のように野球部に入った。もちろん高校に入ったら甲子園を目指すつもりでいた。肩も相当強かったようだが、その肩を痛め野球を断念した。そこへ伝説のグラウンドキーパーのチーフ、藤本治一郎さんから声をかけられた。
「健ちゃん、もう野球やってへんのやったら、夏休みなんもしてへんねやろ。甲子園に来うへんか。表には出されへんけど、スコアやったらだれにもわかれへんから、アルバイトで来いや」
母も本人も藤本さんとは顔なじみだったが、母子家庭の経済的なことを考えてくれてのことだったのかもしれない。金沢少年は中学・高校と甲子園でのアルバイトで明け暮れた。そして高校を卒業すると、野球とは何の関係もない会社のサラリーマンになった。
そんなある日、阪神園芸でグラウンドキーパーを募集しているという話を母から聞いた。
「やりたいんやったら、自分で言いに行き」
母は特に勧めるわけでもなく、ただそう言っただけだった。
そしてめでたく入社の運びとなったが、いざグラウンドキーパーになると、もちろん学生時代のアルバイトとわけが違った。
「健ちゃん」という呼び名は「金沢」に変わった。またグラウンドキーパーの仕事は体力的にもかなり過酷だという。
甲子園の水はけのよさはもはや伝説の域に達しているが、それはそういったグラウンドキーパーたちのたゆまぬ努力があってこそである。
だが著者によると、グラウンドは単に水はけがいいだけではダメらしい。「水はけがよく、水持ちがよく、弾力がある」のがいいグラウンドの条件なのだという。その相反する条件を達成するにはグランウドキーパーの知恵と職人的な技が要求される。
まず、グラウンドの勾配の工夫である。野球場のグラウンドはピッチャーマウンドを頂点にしてフェンスに向かって勾配をつけている。この勾配を常に一定に保つことが表面排水で重要な役目を果たすのだ。頂上から麓まで雨水を均等に流れさせることによって、水たまりができにくくなる。これは日常的な整備だが、最も重要な整備が、シーズンオフの1月から2月にかけて行われる「天地返し」と呼ばれる作業である。
甲子園のグラウンドは四つの層をなしている。一番下に「ぐり石」と呼ばれる大きな石が敷かれている。その上には小さい砕石が並べられ、またその上には火山の砂利、一番上が黒土と砂が混ぜられたもので30センチの厚さがある。
確かに言われてみれば、甲子園の土はかなり黒っぽい。そしてこの黒土と砂との絶妙な配合が水はけのよさの理由の一つである。だが、グラウンドは少しずつ砂が浮いて黒土が沈みこんで固まっていく。それを25センチほど掘り返して黒土と砂の配分を適正なものにするのが「天地返し」である。この掘り返しをいつ実施するかで、その年のグラウンドコンディションが決まってしまうものらしい。
天地返しのあと、まとまった雨が降るのを待つ。そして雨のあと、タイミングを見計らって何日後かに小さなローラーで固めていく。そのタイミングが非常に難しく、計測器ではなく、足でグラウンドを踏みしめた感覚で決めるのだという。