青春の全てがそこにあった 風の彫刻家・新宮晋の原点、1960年代ローマの「甘い生活」
神戸港を出発して1カ月間、貨物船に揺られた。船乗りたちは「こんな静かなインド洋はない」と言っていたが、ひどい船酔いでほぼ食事ができなかった。ジェノバの港に到着してから3日間ほどは地面が揺れていた。
9月、国立美術学校に3年生で編入し、人気画家のフランコ・ジェンティリーニに学んだ。その年の暮れ、まるで新宮を追うように恩師の洋画家・小磯良平がスケッチ旅行でローマを訪れた。新宮がローマに来てから描いた絵を見せると、ぽつりと言った。「あんた、僕から離れてようなったなあ」
美術学校は2年通い卒業した。ジェンティリーニが自身の作品を扱う画商を紹介してくれ、20代半ばで画家として歩み始めた。
広場、噴水、教会、宮殿…。ローマは街全体が美術館のようだった。ミケランジェロやベルニーニといったルネサンスやバロック期の芸術家が、競うように作品を見せ合っていた。彼らは絵画や彫刻、建築といった分野を越え、その才能を存分に発揮していた。
バスを乗り継いでたどり着いた小さな教会。そこにも、本物があった。管理している近所の女性が鍵を開け、鶏を追い出しながら入れてくれた。何百年も前、足場を組み、絵の具をこね、窓から入る光の中で壁に直接描かれたフレスコ画。「確かにここで描いていたんだ」。同じ空気、におい、光の中で見た。作者の息遣いまで感じられるようだった。絵と建築が一体で、一つの作品だった。
60年代は「ローマが最も輝いていた時代」でもあった。ローマが舞台のフェリーニの名作映画「甘い生活」は60年の公開。若きアーティストらは海外の影響も受けながら、エネルギーを爆発させていた。新宮もカフェやレストランで、各国から集まった仲間と新しい芸術の可能性について語り合った。「とにかく何でもやってみようという精神があふれていた」
こつこつと抽象画を描き、少しずつ絵が売れるようになった。一方で自分の進むべき道を模索した。
頭の中には、次々と面白い形が浮かんでくる。それをなぜ、四角いキャンバスに閉じ込めなければいけないのか。疑問を感じ始めた。
「額縁は世界の境界線で、その中に絵はある。額縁に守られているから、くぎ1本打てばどこの壁にもかけられる。そこに違和感があった。『絵でありながら空間』みたいなことを考え、絵から、壁から、離れていったと思う」
分野を超えて活躍した巨匠たちの亡霊は、耳元でささやきかけてきた。「おまえは一生絵を描いて過ごすつもりか。無限の可能性を押し殺してはいないか」
その頃、彫刻家の保田春彦(後の武蔵野美術大学教授)と2人で絵と彫刻の展覧会をしていた。八つ上の保田と1台の車に乗り込み、ローマやウィーンを巡った。「私は失礼にも『絵画には限度があるみたいだけど、彫刻はもっと可能性があるように思う』って言ったんですね。そうしたら保田さんはかんかんに怒って。『そんな偉そうなことを言うなら、おまえがやったらええやないか』って」
互いに関西弁で応酬した。「やりたいけど技術がない」「技術くらい教えたるやんか」。それで保田に溶接を習うことになった。
アパートの地下室にこもり黙々と制作した。鉄棒を曲げて溶接し、キャンバスのきれを縫い付けた。缶に入れたニカワを溶かし、和紙を固めて張り付けた。
作り始めたら、もう次のアイデアが生まれる。早く仕上げて、あれもこれもやりたい。1週間に一つ、作品ができた。次々と湧き出るアイデアを解き放ち、夢中になって形にした。=敬称略