「書きつづけたいと思う魂に生まれついた」川上未映子の「エクストリームで個人的なものとしての文学」
90年代東京を舞台に、金と家の相克を生きる少女たちを描いた『黄色い家』。狂騒の資本主義と生の切実さが衝突する本作に込められた作家の魂とは。批評家の大澤聡さんによる、川上未映子さんのロングインタビュー「エクストリームで個人的なものとしての文学」(「群像」2023年5月号掲載)を再編集してお届けします。「【前篇】川上未映子が最新長篇で見つめる「90年代」特有の空気。XJAPAN、ラッセン、トラウマ、岡崎京子・・・」「【中篇】「最初から最後まで全部を見てやる、見せてやる」川上未映子にとって「小説を書く」行為とは」からつづけてお読みください。
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大澤 「【中篇】「最初から最後まで全部を見てやる、見せてやる」川上未映子にとって「小説を書く」行為とは」で話に出た、ラストにどのルートを選ぶかというエピソード一つ取ってみても、川上さんのその全部を見てやる、見せてやるんだという執念が伝わってくる。フィクションのつくり手に僕が嫉妬するのはそこなんですよ。最後の最後までどの方角へも転び得たわけで、その宙づりの緊張感の中で一つ一つ手触りを確かめながら書き進められる。
川上 それは、おなじ書き手でも、作品によるかもしれないけれど。
大澤 でも、架空の人物と向き合ってその先をつくっていける。
川上 つまりオブザーバーではないということでしょう。
大澤 そうそう。事実を書くのが仕事の僕なんかはどうしてもその事後の神の視点を消すことができない。
川上 でも登場人物にいろんなものを投影させて、いかようにもエモーショナルに扱えるというのは、いいことばかりではないようにも思うけどね。
大澤 いかようにも書けるからこそ、メロドラマに堕してはいけないし、不整合も排除しないといけないという、事実ベースの文章とはまた別種の制約が働くわけでしょう。制約の中で一つずつ将棋の駒を進めるようにして、最後はこれしかあり得ないという、一つの出口を差し示す。
社会的な不安定性が高まる時代には、フィクションよりも事実の方が訴求力を持ちます。それは歴史的にも反復されてきた構図なんですが、そんな時代だからこそ、実証主義的な科学言説だったりノンフィクションだったりと戦う……というとあまりにマッチョなんだけど、こちらの側に全体があるんだ、虚構だからこそ真実が宿るんだという、ある種の尊大感や蛮勇が必要なんじゃないかと思うんです。その意味でも、全部を見てやる、見せてやるという気概はとてもいい。