新しい人よ眼ざめよ!
当時は、文学に関する知識もまったくなく、たとえば文中にイニシャルで登場する、Tさんが武満徹で、Yさんが山口昌男で、などいうことはまったく分からなかった。それどころか、Mさんの「生首」といささかショッキングに記された、そのMさんが三島由紀夫を指すということすら理解しないまま、最後まで読み進めてしまったのだ。
そんなことで、あの本の面白さが本当に分かるのか、と言われてしまいそうであるが、充分に、否、充分すぎるほどに面白かった。もう少し正確に言い直してみると、「面白い」という感想とは実は根底から異なった、自分は何か凄まじいものを読んでしまったという深い感慨にとらわれた。なによりも、ブレイクの詩篇からとられた各篇のタイトルが異様であり、素晴らしかった。「無垢の歌、経験の歌」「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」「落ちる、落ちる、叫びながら……」「蚤の幽霊」「魂が星のように降って、跗骨のところへ」「鎖につながれたる魂をして」「新しい人よ眼ざめよ」。
書かれていることをどれほど真に理解できているかは心許なかったが、大江さんが自らの手を用いて行ったブレイクの翻訳に震撼させられた。「冷たい嬰児が憤怒の大気のなかに立つ。かれは叫ぶ」、「六千年の間、幼なくして死んだ子供らが怒り狂う。夥しい数の者らが怒り狂う、期待にみちた大気のなかで、裸で、蒼ざめて立ち、救われようとして」、「落ちる、落ちる、無限空間を、叫び声をあげ、怒り、絶望しながら」。
障害をもってこの世に生み落とされてしまった息子イーヨーとともに生きていく現実の世界が、時間そのもの、空間そのものを超え出てしまうような神話の世界とダイレクトに、しかもダイナミックにつなぎ合わされている。現在、私が使うことができる言葉で説明するならば、大江さんは他者の言葉を翻訳しながら自己のことを語り、自己の言葉を翻訳しながら他者のことを語っている。「私」を語ることがそのまま新たな「神話」を創出することであり、新たな「神話」を語ることがそのまま「私」を、いまここで、新たに創出していくことである。ブレイクを読むこと、ブレイクを「解釈」(翻訳)することが、「私」を書くこと、「私」と息子との「共生」を書き直すこと、生き直すことにつながっていく。
読むことは生きることであり、書くこともまた生きることである。「小説」にはこのようなことが実現できるのか。新鮮な驚きを覚えた。「眼ざめよ、おお、新時代の若者らよ!」。この連作短篇集を閉じるための最後の一篇のタイトルとして採用された詩篇を読みながら、直接的には、「二つの脳」をもってこの世に生まれるという「新しい人」でありながら、そのもう一つの脳を切り離すことでしか現実に生きることを許されなかった息子へのエールであると理解しつつも、いまその物語を読み進めているこの「私」に対しても、さらに書物を読み、そして書物を書けというメッセージを送ってくれていると思われてならなかった。私もまた、物語のなかのイーヨーとほぼ同世代であった。