ユーチューブの再生回数1億回: 「真夜中のドア」はどのようにして生まれたのか?
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日本のシティポップの海外での人気は止まるところを知らない。今、最も人気なのは松原みきの「真夜中のドア~stay with me」。サブスク大手スポティファイのグローバル・バイラル・チャート(SNSで話題になっている曲を独自に指標化)において18日間連続世界1位を記録。同じくアップル・ミュージックでは92ヵ国のJ-POPランキングでトップ10入りを果たした。ユーチューブにおける再生回数は合計で1億回を超えている。作曲・編曲者の林哲司氏に日本の音楽史上最大のリバイバルとなった同曲の誕生秘話を聞いた。
1979年、新進の作曲家として売り出し中だった林哲司のもとに、レコード会社ポニーキャニオンのディレクター、金子陽彦からこんな制作依頼が舞い込んだ。
「女性の新人歌手向けの曲なんだけど、思いっきり洋楽のポップス風にしてほしいと。当時は『洋楽風に』と依頼されても、売るためには歌謡曲的な要素も加味するのが普通でしたが、この曲については、歌謡曲的な要素は一切無視していいと言われ、大胆なオーダーだなと感じましたね」
それが79年11月5日にリリースされることになる「真夜中のドア~stay with me」。松原みきのデビュー曲だ。
「そのまま英語詞が乗るようなメロディで」と依頼を受けたのは、この曲が初めてだったという林。金子が林を指名したのは、歌詞がなくともメロディづくりに長け、ほとんどを「曲先(詞よりも先に曲をつくる)」で作曲してきた林の特性をも見込んでのことだった。
「事前に歌詞もなかったし、みきさんと会うこともなかった。彼女については、ジャズを歌っていたと伝え聞いただけで、写真も見た記憶がない。他のシンガーは写真を見て、歌声も聴いた上で曲をつくることが多かった。でもこの曲は、『洋楽風で』という指示だけが印象に残っているということは、事前に多くの情報を与えない方が、作家が自由に書いて、おもしろいものができるだろうと、金子さんは踏んでいたのかもしれませんね」
「真夜中のドア」を収録したアルバム『ポケットパーク』では、林は3曲の作曲・編曲を担ったが、シングル曲候補の一つとして、最初に提出したのが「真夜中のドア」だったと言う。
「言われたとおりに英語の歌詞を想定して作曲しました。金子さんには譜面と一緒に、デモテープもつくって渡しました。当時はリズム・ボックスを鳴らして、その上でギターを弾きながらラジカセに向かい、自分で歌って録音していました。ギターはセミ・アコースティックのエレキ・ギターをアンプを通さずに演奏していた。ボディの響きを生かしたカラカラしたカッティングの音で録音すると、空気感も合わさってカッコよく聞こえるんです」
「真夜中のドア」はオリコン調べで10万枚を超えるヒットとなった。
「あの時、何かしらの偶然と必然とが重なってできたのが『真夜中のドア』だったとしか言えないですね。僕がつくる曲は洋楽的な傾向があるのですが、曲を提出する際、譜面を書く必要があったので、その時に微調整をしていた。ここのメロディは日本語が乗らないから直そうとか、ユニークな響きになるからあえて残そうとか。けれど『真夜中のドア』は調整をしないで、英語に合うメロディのまま完成させたんです。良い曲ができたとは思いましたが、この曲に格別の自信があったという記憶はありません」