二人の近代日本画の巨匠。山種美術館でたどる、小林古径と速水御舟の交流の軌跡
生誕140年記念 小林古径と速水御舟 ―画壇を揺るがした二人の天才―」が東京・広尾の山種美術館で開催されている。会期は7月17日まで。
本展は、古径と御舟の代表作が勢揃いする貴重な機会。展示は「歴史人物画からの出発、写実・古典への挑戦」「渡欧経験を経て」「二人の交流、御舟亡き後の古径」の3章で構成されており、基本的には年代順となっている。
11歳の年齢差がある古径と御舟だが、二人にはまるで“運命”のように共通点が多い。
両者の画業は歴史画・人物画から始まっており、ともに1914年に再興された「院展」で活躍。大正時代半ば以降は、細密描写による徹底した写実へと作風を変化させていった。加えて、ともに実業家・原三溪から支援を受けており、三溪のもとで目にした西洋の印象派・ポスト印象派の作品が大きな影響を及ぼしたという。
第1章では、原三渓が買い上げた古径の《極楽井》(1912、東京国立近代美術館蔵、前期[5/20~6/18]展示)や《出湯》(1921、東京国立博物館蔵、[6/27~7/17]展示)、唯一油絵具で描かれた《静物》(1922、山種美術館蔵)などが展覧。また御舟からは、炎とそこに群がる蛾を描いた最高傑作《炎舞》(重要文化財、1925、山種美術館蔵)、琳派作品の構図を意識的に取り入れた大作《翠苔緑芝》(1928、山種美術館蔵)などが並ぶ。
古径と御舟はともに渡欧経験がある点も共通している。古径は1922年に、御舟は1930年にそれぞれ渡欧しており、約7ヶ月にわたり滞在し、様々なものを吸収した。
古径は渡欧によって東洋画の「線の美」に目覚め、独自の画風を確立。第2章で展示される代表作《清姫》(1930、山種美術館蔵)でその結実を見せた。例えばこのうち「日高川」では、小さな人物の指先の爪に至るまで描きこまれており、高い技術力も示されている(なおこの作品は、古径が親しかった山種美術館創設者・山﨑種二に「美術館をつくられるのならば」と購入を許したという逸話がある)。
いっぽう御舟は、人物表現や水墨を基調とした花鳥画へと新境地を拓いていく。ふっくらとした牡丹の花を墨の濃淡のみで見事に表現した《牡丹花(墨牡丹)》(1934、山種美術館蔵)は、御舟の技法的な円熟を感じさせるものだ。後に古径が描いた《牡丹》(1951頃、山種美術館蔵)と比較してみるのも楽しいだろう。
御舟は「先輩」である古径を「自分の信じた道を真直に歩んでいく」と称賛しており、古径も年下の御舟に対して「あれほど芸術に熱烈だった友のことを想うと尊敬の念にかられる」と述べるなど、互いに尊敬の念を抱いていた関係性であったという。
しかしながら、御舟は1935年、40歳の若さでこの世を去ることとなる。最終章では、その臨終に駆けつけた古径が描いた御舟のデスマスク(1935、個人蔵)を展示。あまりにも早い死を悼んだという古径。その作品は、ふたりの関係の親密さを何よりも鑑賞者に伝えるものだ。
また同章では、古径が模写したと伝わる御舟の《桔梗》(1952頃、山種美術館)や、御舟の死後に描かれた作品群を展覧。歳を重ねるに連れ、シンプルになっていく古径の変遷にも注目したい。
互いに刺激を受け合いながら時代を牽引し、同時代や後世の画家たちに大きな影響を残した古径と御舟。本展では、その作品を比較するとともに、交流を示す言葉も展示することで、その関係性により迫る構成となっている。