米国在住の日本人女性、68歳で夢の「絵本作家」デビュー
絵本の主人公は絵を描くのが大好きな女の子。理科のテストで悪い点を取り、泣いていると、ダンスの大好きなコオロギが現れ、こんなふうに言う。「動物の学校ではチーターは走る授業では一等賞。でも空を飛ぶ授業ではどうかな。誰にも得意なことがある。それを探し出し、夢中になってやってみよう」。フィップスさん自身の、子どもたちへのメッセージを込めた。
文章は先に英語で書き、日本語に翻訳した。すべてのページに英語と日本語の両方を載せたバイリンガル絵本だ。
真喜さんは大学生だった19歳のとき、米国に短期留学した。デトロイト出身の米国人男性と恋に落ち、2年間の文通を経て渡米し、結婚。それ以来、ほぼ米国暮らしだ。
デトロイトでは20種類近い仕事をこなした。留学あっせん、日本語教師、英語教師、ラジオ放送プロデューサー……。何にだって挑戦し、前向きに取り組んだ。週末に駐在員の子どもらが通う日本語補習校の教師を務めたことも。「英語が分からず自信喪失している子どもたちを見て、あえてテストに点数をつけるのをやめ、何度書き直してでも全部解答できたら全員100点をあげて『あなたはできるよ』と励ましました」
旅行代理店では副社長として14年間、自動車産業など日本企業関係者の通訳や翻訳、コーディネーターも務めた。折しも1980~90年代、ジャパンバッシングのまっただ中。「『日本人は地獄に落ちろ』なんてヘイトメールが届き、怖い思いもしました」と振り返る。
私生活では離婚、再婚も経験したが、3人の孫に恵まれた。転機は62歳のとき。網膜から出血が止まらず、「失明の恐れがあります」と医師に宣告された。がくぜんとした。周囲を見渡せば同世代の友人が亡くなっていた。やりたいことをやらずに死ぬのは嫌! だから自問した。「私は何が好き? 夢中になれるものは?」
実は、子どもの頃から絵を描くのが大好きだった。でも渡米後は、がむしゃらに働くばかりで絵も描いたことなどなかった。「絵を描こう!」。心に決め、心機一転、芸術家や職人が多く暮らすノースカロライナ州アッシュビルに転居。通訳や翻訳の仕事もきっぱりと辞めた。
墨絵を取り入れた絵を「ジャパニーズ・フュージョン・アート」として観光地の売店に置いてもらったら、結構売れた。しかしコロナ禍で観光客が減り、注文も止まった。
へこたれないフィップスさん、今度は絵本に取り組もうと考えた。実は妊娠中に一度だけ、自分で絵と文章を書き、絵本を手作りしたことがあった。おなかにいる娘への贈り物だった。当時の題名は「私が大好きなもの」。娘に「好きなことを大事にしてほしい」という願いを込めた絵本で、生まれてきた娘に何度も読み聞かせた。
「あれを下敷きに、今を生きる子どもたちに励ましのメッセージを送りたい!」。書き上げ、米国のブックコンテストに応募したら、出版してもらえる大賞は逃したが、優秀努力賞に選ばれた。勇気を得て日本の出版社に持ち込み、出版にこぎつけたのが今回の絵本だ。
「この絵本を子どもに読み聞かせながら、夢中になれることは何かを聞いてあげてほしい。逆に『おばあちゃんは何が好き?』などと質問されたら、はぐらかさずにまっすぐにこたえてあげてほしい」とフィップスさん。夢を語るのに大人も子どももないからだ。
フィップスさん自身は今も書くことに夢中。新しい絵本に取り組む傍ら、半生記を原稿用紙700枚分書き上げた。昨年、日本の出版社の懸賞コンクールでは惜しくも入賞を逃したが、「書き直してまた挑戦します。それがダメでも、何度でも!」。【小国綾子】