立花隆の幻の原稿が35年ぶりに出版されるまで 共著者の写真家が明かす壮絶ドラマ
「知の巨人」立花隆氏が逝去して1年と1ヵ月。今日、立花氏が生前残していた幻の生原稿『インディオの聖像』が出版される。実はこの書籍は35年前に企画され、いったんは表紙カバーまで出来上がっていたが、その後、出版は途絶していた。幻の原稿は、いかにして蘇ったのか? 同書の共著者である写真家の佐々木芳郎氏が綴る。
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文藝春秋の取材でスタートしたこの書籍化の企画は、写真集を日本語・スペイン語・英語の3ヵ国語版でつくりたいという立花さんの意向にそえないとなり、その後立花さんは、講談社に企画を持ち込んだ。
立花さんから紹介された担当編集者は故・立脇宏さんだった。これはあまり知られていない話なのだが、立脇さんと立花さんが最初に出会ってから2年後の1974年7月、立花さんが立脇さんに出した取り上げてみたい人物企画が、「田中角栄」と「宮本顕治」だったのである。
それが『週刊現代』に「意外! 田中首相が三福に完勝した七月政変の内報」という見出しで掲載された、立花さんが田中角栄について初めて書いた原稿である。立花さん本人も「実をいうとこれ(週刊現代の記事)が下敷きとなって文藝春秋の『田中角栄研究』が生まれたのです」と書いている。文藝春秋で自民党の田中をたたいたから、バランス感覚で「日本共産党の研究」を立花さんに書かせたというのは事実ではない。
「田中角栄研究」の原点の裏方は、講談社の編集者立脇さんなのだ。
講談社にあった立花部屋では、立花さんが読みあさった参考文献が机の前方に左から順番に並べられている。文献にはところどころ付箋が差し込まれていた。
僕がいつ訪ねても、立花さんは書籍に目を通しているだけで、不思議そうにのぞき込む僕に「書くのは最後の最後でいいんだよ」と話してくれていた。
立花さんからは「束見本(実際の製本時と同じ仕様・製本機で製作された製本サンプル)ができたから見に来る?」「写真掲載の順番を決めよう」「色校はちゃんと見ておかないとダメ」と本作りをまったく知らない僕にいちから教えるうように連絡が入り、その都度大阪から東京に向かった。初めての講談社での打ち合わせから写真集が完成するまでに、26回も往復していた。
一番嬉しかったのは表紙のカバー写真を見せられたときだった。
「佐々木クン、頑張ったから、名前も同じ大きさ、印税も折半でいいだろう」
と言ってくれたのだ。
「ノンフィクションは参考文献書籍代だけでもかなりの持ち出しで、出版して儲からないし、元を取れないこともある」と立花さんは話していた。僕は自腹で再撮に行ったことで大赤字だったが、金銭的にではなく、精神的に十分満足し報われたと思った。