首里城「令和の復元」を沖縄人の誇りに 未来への伝承願う専門家
沖縄が米国統治下から日本に復帰した1972年、波照間さんは琉球大学で国文学を学んでいた。当時の学舎があったのは、太平洋戦争末期の沖縄戦で焼失し、消えた首里城の跡地。首里城だけでなく、多くの歴史的建造物や美術工芸品が地上戦で失われ、目にする機会はほとんどなかった。
「沖縄には誇るべきものは何もない。復帰したら、ヤマト(日本)の大きな力や文化に沖縄の人間は翻弄(ほんろう)されるのではないか」
復帰が3カ月後に迫った頃、那覇市であった展覧会に足を運んだ。会場には、戦前の沖縄で文化財の調査に当たった鎌倉芳太郎氏(1898~1983年)が撮影した在りし日の首里の寺や工芸品の写真が大きく展示されていた。「かつてはこんなにたくさん優れたものがあったんだ。琉球を知り、広めることが自分の役目だ」と感じた。その“出会い”がきっかけとなり、波照間さんは琉球文学の研究者となった。
92年、首里城正殿は「平成の復元」でよみがえった。重要な資料となったのは鎌倉氏が残した写真や図面。だが、復元工事が国主導で進められたこともあり、県民全体で復元を祝う雰囲気は乏しかった。
波照間さんが県民意識の変化を感じるようになったのは、07年に「書院・鎖之間(さすのま)」、14年に「黄金御殿(くがにうどぅん)」と、琉球国王らの日常が感じられる正殿周辺の施設が次々と復元されてからだ。「国王の権威だけでなく、当時の人々の生活や文化を身近に感じられるようになった。首里城は正殿復元から30年かけて県民の心のよりどころになった」。19年の火災時、首里城が焼け落ちる光景を、人々は目に涙を浮かべて見つめた。県や那覇市には再建を願って寄付金が次々と集まった。
その年の12月、国の技術検討委員会で正殿復元に向けた議論が始まり、波照間さんも委員を任された。提唱したのは県民の手による再建。「やんばる(沖縄本島北部)の木を使ってほしい」などと県内各地の業界から資材の提供や技術協力の申し出も寄せられた。「誇るべきものは何もない」と嘆いた半世紀前が遠く感じられた。正殿のはりには、やんばるの「オキナワウラジロガシ」が用いられ、象徴的な赤の塗装にも県産の顔料が使われる予定だ。
首里城はなぜ多くの県民に愛されるようになったのか。波照間さんの頭には「多様性」という言葉が浮かぶ。「かつて多くの県民はヤマトのようにならないと駄目だと思っていた。でも、本土の城とまるで姿、形が違う壮麗な首里城を見て『ヤマトと違っていい。むしろ違うことを誇りにしたい』と思う県民が増えた」
城と同様に、波照間さんが研究してきた琉球の言葉も日本本土とは異なった。だが、今やそうした独自の言葉や文化は日本との交流が進み、忘れられつつある。波照間さんは首里城の存在に希望をつなぐ。「琉球語は明治から100年かけて廃れた。言葉を取り戻し、アイデンティティーを確立するには、この先100年かかるかもしれない。でも、孫の世代、その孫の世代も首里城の姿を見れば、自分たちはウチナーンチュだと思うはずだ」【比嘉洋】