伝説のアートスペースを率いた小池一子の仕事|青野尚子の今週末見るべきアート
展示は「中間子」というタイトルの「展示室1」から始まる。「中間子」とは物理学者、湯川秀樹が陽子と中性子の間を行き来する、当時は未知の物質を中間子と名づけたことからとったもの。湯川博士はこの理論で日本初のノーベル賞を受賞した。この展示室に並ぶ編集、翻訳、コピーライト、企画、キュレーションといった仕事はまさに「中間子」と呼ぶにふさわしい。田中一光、石岡瑛子、三宅一生といった唯一無二の才能を持つ人々をつなげる。彼らが作り上げたものと読み手・受け手とをつなげる。そんな「中間子」としての小池の役割が浮かび上がる。
「展示室2」には小池が立ち上げに関わり、今もアドバイザリーボードをつとめる「無印良品」のポスターなどが展示されている。今では「MUJI」として世界中で愛されるこのブランドは1980年に始まった。小池はコピーライターとして「愛は飾らない。」といった作品を発売当時から生み出している。
小池のスタートラインは大学卒業後、グラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナーの堀内誠一のスタジオに入ったことだった。
「大学では演劇に夢中になっていたのだけれど、劇団や美術館に就職するのはどうなのかな、と思っていたんです。そんなとき伝手があって、グラフィックデザイナーの堀内誠一さんが中心のスタジオ、アド・センターに行くことになった。私は秘書として入ったんだけれど、当時のアド・センターには奈良原一高さんや東松照明さんたち、あっと思うような人たちが入れ替わり立ち替わり来ていたんです。そんな中で、私にできる仕事はビジュアル表現に伴走することかな、と思った」
小池はアド・センターに2年間、在籍したのち、独立してアートディレクターの江島任(たもつ)、高野勇と会社を設立した。そこでは江島がデザイン、小池がコピーを担当してファッション誌の編集などを手掛ける。
この頃に森英恵から依頼されて制作した「森英恵流行通信」は世界でも珍しい、出版社ではなくファッション・メゾンが発行するメディアだった。そのほか西武百貨店やPARCO、西友の広告やコピーライト、アイリーン・グレイら女性クリエイターを紹介する本の翻訳、演劇などの分野で活躍する。
これら広告や編集の現場で小池は石岡瑛子や山口はるみら、強い個性と高い創造性の持ち主たちと協働する。彼らとぶつかりあったりすることはなかったのだろうか。たとえば「無印良品」を始め、多くの仕事をともにしたグラフィックデザイナー、田中一光について小池はこう語る。
「一光さんとはウマが合うというと僭越だけれど、興味を持つ世界が一緒だった。あの頃、60年代後半から70年代にかけてはサブカルチャーが盛んな時期でしたから、一晩にバーやクラブを2軒も3軒もハシゴして。一光さんとはなんとかして自分が見たいイメージを探し出し、創り出してきました。『大判グラビアで動いている、舞踏会でうわーっと回ってる写真を作りたい』と言って米軍の司令官のパーティに潜り込ませてもらったり。一光さんだけでなく、こんなふうに一緒にものを見て発展させる、そんなものづくりができるユニットに恵まれましたね」